声で分かること
人の声には、言葉以上の情報が含まれている。それに気づいたのは、たぶん余計なことだった。
「放課後のふたりごと」という名前がついてから、放送の空気が変わった。
変わったのは内容ではなく、俺たちの意識だ。名前がなかった頃は「月一のノルマ」であり「週一の作業」だった。名前がついた途端、それは「俺たちの番組」になった。
呼び方が変わると、扱い方も変わる。当たり前のことだが、実感するまでは分からなかった。
六月中旬。梅雨の真っ只中。
放課後の放送室は湿気のせいか少し蒸していた。窓を細く開けると、雨の匂いが入ってくる。土と草と水が混ざった、嫌いじゃない匂いだ。
今日はお便りの整理をしている。テーマ制にしてから届く数が増えた。今週のテーマ「学校で好きな場所」には、二十通近い回答が来ている。
「図書室が多いですね」
「定番だからな。あと屋上、中庭」
「屋上は立ち入り禁止じゃありませんでしたっけ」
「だからこそ好き、ということだろう」
「……なるほど」
音羽が便箋を一枚ずつ読んでいく。手つきが丁寧だった。一通ごとに内容を確認して、分類して、付箋を貼る。俺は放送で取り上げる候補を選ぶ係だ。
音羽が一通を持ち上げた。
「これ、面白いです。『自分の教室の一番後ろの席。窓際じゃなくて廊下側の。誰にも気づかれないポジション。一人でいられるから好き』」
「分かるな、その気持ち」
「……真白くんも、後ろの廊下側が好きですか」
「俺の席は真ん中あたりだけどな。選べるなら後ろの端がいい」
「私も、です」
音羽がほんの少しだけ笑った。口元が緩む程度の、いつもの控えめな変化。
でも今日は声にも変化があった。「私も、です」の「です」が、普段より半音ほど高い。
嬉しいときの音だ。
……また分類している。いい加減にやめた方がいい。音羽の声のトーンをいちいち分析するのは、それがもはや無意識の習慣になりつつあるとはいえ、冷静に考えると結構気持ち悪い行為だ。
だが、やめられない。
一度気づいてしまうと、もう聞こえないふりができなくなる。音羽の声には分かりやすい法則があった。
嬉しいとき。声のトーンがわずかに上がる。語尾が消えずに残る。
安心しているとき。声が柔らかくなり、話すテンポがゆっくりになる。
緊張しているとき。声が細くなる。早口になる。語尾が消える。
何かに蓋をしているとき。声の温度が急に下がる。平坦になる。抑揚が消えて、まるでニュースを読んでいるような調子になる。
この最後のパターンが出るのは決まって特定の話題のときだった。「昔は」ピアノを弾いていた、の「昔は」の先。中学時代のこと。転校してきた理由。
俺はそこに踏み込んだことがない。音羽が蓋をしている以上、勝手にこじ開ける権利は誰にもない。
でも。
「音羽」
「はい」
「お便りの中に、音楽に関する質問があっただろ。『パーソナリティの方は何か楽器をやりますか』っていう」
音羽の指が便箋の上で止まった。
「……ありましたね」
「これ、来週の放送で取り上げようかと思うんだけど」
「……」
沈黙。時計の秒針が二つ。三つ。
「私のことを聞いている質問、ですよね」
「たぶん。俺は楽器やらないから」
「……」
音羽が便箋をテーブルに置いた。手を膝の上に戻す。指を組む。
声の温度が、下がった。
「……ピアノを弾いていました。中学の途中まで」
「途中で辞めたのか」
「……はい」
平坦。抑揚なし。ニュースを読む声。蓋をしている。
ここで引くべきだ。分かっている。
「理由は聞かなくていいか」
「……」
音羽が俺を見た。驚いた、という顔ではなかった。むしろ、こちらの出方を計っているような目だった。どこまで聞くつもりなのか、どこまで話す必要があるのか。
「……今は、まだ」
「分かった」
それ以上は聞かなかった。音羽が「今は」と言った。「話さない」ではなく「まだ」。いつか話すかもしれない、という含みを残している。
それで十分だ。急ぐ理由はない。
「お便りの質問は、俺が答えておく。楽器経験なし、音楽は聴く専門、って」
「……それだと、私が楽器をやっていたことがバレませんか」
「なぜ」
「真白くんが楽器をやらないなら、あの選曲センスは相方の方だと推測されます」
「……鋭いな」
「お便りを書いてくれる人たちは、よく聴いてます。聴いている人は、気づきます」
音羽の声が、ほんの少しだけ温度を取り戻した。蓋が完全に閉じきらなかった。リスナーの話になると、音羽の声は安定する。自分のことより、誰かのことを話す方が楽なのだろう。
「じゃあ、どうする」
「……正直に答えます。昔、ピアノを少し。今は弾いていません、と」
「それでいいのか」
「はい。嘘はつきたくないので」
嘘がつけない。音羽のその性質は、声を聴いていれば分かる。感情を隠すことはできても、感情を偽ることはできない。だから蓋をするしかない。声のトーンを平坦にして、何も感じていないふりをする。
でもそれは嘘ではなく、沈黙だ。音羽にとって、嘘をつくことと黙ることは、全く別のものなのだろう。
「分かった。それで行こう」
「……ありがとう、ございます」
お便りの整理に戻る。二人とも黙って作業を進める。いつもの静寂。紙をめくる音。時計の秒針。窓から入ってくる雨の匂い。
でも俺の頭の中は静かではなかった。
音羽の声のトーン。嬉しいとき、安心しているとき、緊張しているとき、蓋をしているとき。それぞれの違いが、もう自動的に識別されてしまう。
これは便利な能力なのか、それとも厄介な体質なのか。
たぶん後者だ。人の感情を声から読み取れるということは、知らなくていいことまで知ってしまうということだ。音羽が何を嬉しいと感じ、何を怖がっているのか。それが声を通じて伝わってくる。
中学の頃、俺は「余計なことをするな」と言われた。人の感情に気づいて、気づいたから動いて、動いたせいで事態を悪化させた。
だから今は動かない。気づいても、黙っている。踏み込まない。
それが正しいはずだ。
……はずなのに。
音羽が「今は、まだ」と言ったとき、俺の胸の奥で何かが疼いた。
いつか、その蓋を自分の手で開ける日が来るかもしれない。そのとき、俺はちゃんと受け止められるだろうか。
考えすぎだ。帰ろう。
「音羽、そろそろ」
「あ……もう六時」
「遅くなったな」
「お便りが多くて、つい」
二人で片づけをする。便箋をクリアファイルに入れ、机の上を整頓する。電気を消して、放送室を出る。
廊下に出た瞬間、雨音が一気に近くなった。窓の外は薄暗い。
「傘、持ってるか」
「……あ」
音羽が固まった。持っていないらしい。
「朝は降ってなかったから」
「天気予報見ないタイプか」
「……見忘れた、タイプです」
「俺は持ってる。駅まで一緒に行くか」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
何を言ってるんだ。傘を貸すだけでいいだろう。なぜ一緒に行くことになっている。
「……いえ。大丈夫です。少し待てば小降りになると思うので」
「そうか」
音羽が断った。当然だ。放送室の中では隣に座っている間柄でも、外に出ればただのクラスメイトだ。一緒に帰るような関係ではない。
「じゃあ」
「はい。お疲れさまでした」
俺は傘を開いて、一人で校舎を出た。雨が傘を叩く音が、やけに大きく聞こえた。
背後の校舎を振り返ると、二階の端の窓にうっすらと明かりが見えた。放送室。音羽がまだいるのだろう。雨が止むのを待っている。
……戻るか。いや、断られたのだから戻る理由がない。
足を止めて、また歩き出す。止めて、歩く。傘を握る手に力が入る。
結局、俺は校門を出てから引き返した。放送室のドアの前に傘を一本、立てかけた。自分の傘ではなく、下駄箱の横に忘れ物として置いてあったビニール傘。俺のものではないから、俺が貸したことにはならない。
……何をやっているんだ。
頭の中で自分にツッコミを入れながら、雨の中を走って帰った。
声で感情が分かる。便利だと思ったが、知りたくないことまで知ってしまうのは、たぶん呪いに近い。




