最初の相槌
お便りを読むだけだ。コメントするだけだ。それなのに、隣の「はい」ひとつに救われるとは思わなかった。
木曜日。初めてトークを入れる放送の日。
昼休みの放送室。ミキサーの前に座って、手元のお便りを確認する。先週までに届いた中から三通を選んだ。
一通目。「選曲が毎回違って楽しみにしてます。パーソナリティの人たちは音楽好きなんですか?」
二通目。「放課後の教室で聴いてます。部活始まるまでの時間が好きになりました」
三通目。「二人でやってるんですよね? もう一人の声も聴いてみたいです」
三通目は迷った。音羽にプレッシャーをかけることになりかねない。だが音羽に事前に見せたとき、彼女は少し考えてから「……大丈夫です」と言った。大丈夫の基準が不明だが、本人がいいなら信じることにした。
隣の椅子で、音羽がマイクの角度を微調整している。今日は自分のマイクの前にも座っている。相槌のために。
「緊張してるか」
「……はい」
「正直だな」
「嘘をついても、声に出ます」
「……それもそうか」
十二時三十分。マイクのスイッチを入れる。赤いランプ。
「――昼休みの放送部です。今日は少しだけ、お便りを紹介します」
一曲目を流す。ジャズのピアノトリオ。二分半ほどの穏やかな曲だ。その間に呼吸を整える。隣の音羽もじっと座っている。曲を聴いているように見えるが、膝の上の手が組まれたままだ。
一曲目が終わる。
俺はお便りの一通目を手に取った。
「お便りが届いてます。読みます」
そこで気づいた。ラジオ番組として致命的に素っ気ない導入だということに。もう少しなんとかならなかったのか。
だが今さら言い直す方が不自然だ。そのまま読み上げる。
「『選曲が毎回違って楽しみにしてます。パーソナリティの人たちは音楽好きなんですか?』。――二年A組の方からです」
読み終えた。さて、コメントだ。何を言えばいい。
「俺は、そこまで詳しいわけじゃないです。でも相方の方が選曲のセンスがいいので、たぶんそのおかげだと思います」
相方。音羽のことをそう呼んだのは初めてだ。放送上の呼称として自然だったから口をついて出たが、本人がどう思うかは読めない。
ちらっと隣を見た。
音羽の耳が、赤い。
……え?
いや、夕日の色か。窓の光が横から差しているから、光の加減でそう見えただけかもしれない。
次のお便りに移ろう。
「二通目。『放課後の教室で聴いてます。部活始まるまでの時間が好きになりました』。――嬉しいですね」
素直に出た言葉だった。昼休みの放送を放課後にも聴いている人がいるということは、録音されているわけではないから、たぶん友達から又聞きで内容を知ったのだろう。あるいは放送の雰囲気が好きで、似たような時間を自分でも作っているのか。
どちらにしても、俺たちの十五分が誰かの日常に影響を与えている。その事実は、正直に言って悪くなかった。
「三通目。『二人でやってるんですよね? もう一人の声も聴いてみたいです』」
読み上げた瞬間、空気が変わった。隣の音羽がわずかに身じろぎしたのが分かった。
「もう一人というのはこの放送の相方のことだと思います。今はまだ慣れていないので、もう少し待ってください」
そこまで言って、沈黙が落ちた。
マイクは生きている。この沈黙はそのまま校舎中に流れている。一秒が長い。何か繋がないと。
「……はい」
音羽の声だった。
小さかった。本当に小さかった。でもマイクが拾っていた。防音の部屋で、コンデンサーマイクの感度は十分だ。
「……待っていて、ください」
音羽の声が、マイクを通して放送室のスピーカーに返ってきた。自分の声が放送されているという事実に気づいたのか、音羽の肩がびくっと跳ねた。
でも、声は消えなかった。
「はい」と「待っていてください」。たった二言。十五分の放送の中の、数秒間。
だがそれは、音羽が初めて放送で発した声だった。
二曲目を流す。クラシックギターの独奏。俺はマイクをミュートにしてから、小さく息を吐いた。
「……ナイス」
音羽に聞こえる程度の声で言った。音羽は俯いて、膝の上の手をぎゅっと握っていた。指の関節が白い。
「……声、震えてましたか」
「いや。綺麗だった」
言ってから、しまったと思った。「聞き取れた」とか「大丈夫だった」とか、もっと無難な言い方があっただろう。なぜ「綺麗」が出てきたのか。
音羽がこちらを見た。目が丸い。
「……あ。いや。声質の話だ。マイク乗りがいいというか」
「マイク、乗り」
「コンデンサーマイクとの相性がいいっていうか。技術的な意味で」
「……はぁ」
音羽の表情が、困惑と何か別のものが混じった微妙なものになった。技術的な意味で、のくだりは明らかに苦しかった。自分でも分かっている。
残りの放送は音楽で埋めた。最後の曲が終わり、マイクを切る。
「来週もやりますので。それでは」
赤いランプが消えた。
放送室に静寂が戻る。俺は椅子の背もたれに深く体を預けた。
「……疲れた」
「お疲れ、さまです」
音羽の声はまだ少し硬かった。でも「お先に、失礼します」の定型文じゃない。初めて放送後に交わした、普通の言葉だった。
片づけをしながら、俺は今日の放送を振り返っていた。
お便りを読むのは思ったより難しくなかった。自分の言葉じゃなく、誰かの言葉を媒介にすれば、マイクの前でも声が出る。
音羽の「はい」と「待っていてください」は、たぶんリスナーにも聴こえていた。あの声が放送に乗った瞬間、俺の中で何かが動いた。安堵に似ているが、それだけじゃない。もっと別の、名前のつけにくい感情。
音羽が鞄を持って立ち上がった。
「真白くん」
「ん」
「さっきの……綺麗、というのは」
「技術的な意味だ」
「……はい。技術的な」
音羽はそれ以上何も言わず、「それじゃあ、また」と言って出ていった。
一人になった放送室で、俺は自分の顔に手を当てた。
熱い。
エアコンをつけていないせいだ。六月だ。蒸し暑いからだ。
それ以外の理由は、ない。
技術的な意味で。マイク乗りがいい。声質の話。――自分でも苦しいと分かっている言い訳ほど、喉にこびりつく。




