気持ちが分かるの?
声のトーンで全部分かる。分かってしまう。だから、分からないことにしている。
十一月の放送室は、暖房が入り始めたせいで少しだけ空気が乾いている。
放課後。いつものように音羽澪がミキサー卓の前に座っていて、俺──真白陸がその隣の椅子に座っている。今日は放送がない日だ。来週の選曲リストを二人で組んでいた。
「これは季節的に合わないですね」
「秋じゃなくて冬の曲だからな。十一月の後半なら使えるか」
「じゃあ、こっちを先に」
音羽がプレイリストの順番を入れ替える。指先がマウスの上を滑る。その動きが妙に丁寧で、一曲一曲に触れるように選んでいるのが分かる。
この間の秋祭りから、一週間が経っていた。
橘夏希に指摘された言葉が、まだ頭に残っている。「あんた、あの子のこと好きでしょ」。否定しなかった。できなかった。嘘をつくのは得意なはずなのに、あの瞬間だけは喉が動かなかった。
人混みの中で掴んだ音羽の手首の感触が、右手にまだ残っている。
「……真白くん」
「ん」
「ちょっと聞いてもいいですか」
「何だ」
音羽がマウスから手を離した。膝の上に両手を置く。こういう姿勢のときは、放送の話ではなく個人的な質問をするときだ。もう、そういう癖まで覚えてしまっている。
「真白くんは、人の気持ちが分かるんですか」
予想していなかった問いだった。
「……急だな」
「すみません。ずっと聞きたかったんです」
音羽の声は落ち着いていた。いつもの半音高い声ではなく、低く、まっすぐな声。真剣に聞いているときの声。
「放送のとき、お便りを読む前に内容を察してるように見えることがあります。リスナーの気持ちに先回りしてコメントを返したり」
「……観察が鋭いな」
「それと」
音羽が少し間を置いた。
「私の声が変わるのにも、気づいてますよね」
心臓が一つ、大きく鳴った。
気づいている。もちろん気づいている。音羽の声は感情の地図だ。嬉しいときは半音上がる。リラックスしているときは柔らかくなる。感情に蓋をしているときは温度が下がる。緊張しているときは細く速くなる。
俺はそれを、最初は分析だと思っていた。声質の観察。パーソナリティとして必要なスキル。
でも今は分かっている。あれは分析じゃなかった。音羽の声に耳を傾けずにはいられなかっただけだ。
「……分かるときもある。分からないときもある」
「曖昧ですね」
「曖昧なんだよ、実際」
「じゃあ」
音羽がこちらを向いた。暗褐色の目。窓からの午後の光が片方の瞳だけに入っている。
「私の気持ちは」
空気が止まった。
放送室の防音壁が、外の音を全部遮断している。秒針の音。暖房の微かな唸り。それだけ。
「……分からないことにしてる」
言ってしまった。
嘘じゃない。音羽の気持ちを読もうとすれば、たぶん読める。声のトーン、視線の動き、指先の仕草。材料は全部揃っている。
でも俺は、意図的にそこから目を逸らしている。
怖いからだ。
読んでしまったら。音羽の気持ちが俺と同じ方向を向いていたら、もう引き返せない。逆に、そうじゃなかったら、この放送室にいられなくなる。
どちらに転んでも、今の距離が壊れる。
音羽の表情が動いた。驚き。一瞬の沈黙。それから、微かに眉が下がった。悲しそうな、でも怒っているのとは違う、置いていかれたような顔。
その表情は二秒で消えた。
「……ずるいです」
音羽が笑った。
その笑い方を俺は知っている。感情を一回飲み込んでから出す笑い。本心と表情の間にワンクッション挟む癖。でも今日の笑いには、いつもの防御の硬さがなかった。
「分からないことに『してる』って、それ、本当は分かるってことじゃないですか」
「……言葉尻を捕まえるな」
「捕まえます。国語の成績、いいので」
「知ってる」
音羽がまた笑った。今度は自然に。声が半音上がっている。
嬉しいのか。なぜ。俺は音羽の気持ちを見ないようにしていると言ったのに。それは拒絶に近い態度だったのに、なぜ嬉しそうなんだ。
「真白くん」
「何だ」
「『分からないことにしてる』って言葉、覚えておきます」
「……勝手にしろ」
「勝手にします」
音羽が選曲リストに目を戻した。何事もなかったかのように。
でも俺は気づいている。音羽の耳の先端がわずかに赤い。声は平静に戻っているのに、耳だけが正直だ。
俺も画面に目を戻した。文字が頭に入ってこない。
分からないことにしている。そう言った。でも本当は、分かりたくないんじゃない。分かってしまうのが怖いだけだ。
音羽の気持ちが。俺の方を向いているのか、いないのか。
それを確かめる勇気が、まだない。
……まだ。
その「まだ」に、期限が近づいている気がした。
「ずるいです」。その一言に、全部が詰まっていた。俺には、まだ開けられない。




