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放課後のふたりごと 〜廃部寸前の放送部で始めた二人だけのラジオが、いつの間にか学校一の人気番組になっていた〜  作者: Studio Flint
声が届き始める

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触れた理由

手首を掴んだ理由を考えて、一晩眠れなかった。分析で片づくなら、とっくに片づいている。

眠れなかった。


 布団の中で天井を見つめて、三時間が経っていた。時計の針が午前二時を指している。


 右手の感覚が消えない。音羽澪(おとわみお)の手首を掴んだ、あの瞬間。細い骨。速い脈拍。体温。


 分析しようとした。


 なぜ手を伸ばしたのか。はぐれそうだったから。人混みの中で見失うのが危険だと判断したから。保護者的な反射。合理的な行動。


 なら、なぜ手首だったのか。


 肩を叩くこともできた。腕を掴むこともできた。声をかけるだけでもよかった。「音羽」と呼べば振り向いたはずだ。なのに俺の手は、手首に向かった。


 手首。袖と手の境界線。服でも肌でもない、曖昧な場所。


 偶然だ。たまたま手が届いた場所がそこだっただけだ。


 偶然で、三時間眠れなくなるか。


 寝返りを打った。目を閉じる。まぶたの裏に、花火の光に照らされた音羽の顔が浮かぶ。赤い頬。押さえられた手首。


 暗くて見えなかったことにした。したのだが、見えていた。はっきりと。


 四時に眠って、七時のアラームで起きた。三時間睡眠。最悪のコンディション。


 月曜日の教室は普通だった。瀬戸颯太(せとそうた)が「祭り楽しかったな」と言い、俺は「ああ」と返した。橘夏希(たちばななつき)が「音羽さんに射的教えたの楽しかった」と言い、俺は「そうか」と返した。


 夏希が俺の顔を覗き込んだ。


「あんた、寝不足?」


「……少し」


「祭りの後に興奮して眠れなかった? 小学生みたいだね」


「……うるさい」


 小学生みたい。的外れな分析だ。いや、的外れでもないのか。興奮して眠れなかったのは事実だ。興奮の中身が小学生とは違うだけで。


 放課後。放送室(ほうそうしつ)のドアの前で、三秒止まった。


 この向こうに音羽がいる。土曜日に手首を掴んだ音羽が。「手、ありがとうございました」と言った音羽が。


 ドアを開けた。


 音羽がいた。椅子に座って、本を読んでいた。いつもと同じ姿勢。いつもと同じ場所。


 目が合った。


「こんにちは」


 音羽の声。いつも通り。穏やかで、静かで、少しだけ低い。


「……こんにちは」


 俺の声。いつも通り、のつもり。出ているかは分からない。


 椅子に座った。いつもの距離。テーブルを挟んで斜め向かい。


 音羽が本に視線を戻した。ページをめくる音。エアコンの低い唸り。窓から入る午後の光。


 普通だ。いつも通りの放送室だ。何も変わっていない。


 なのに、俺の心拍数だけが通常値じゃない。


「……来週の放送の構成、考えてきた」


 仕事の話を振った。これなら平常心でいられる。


「はい。聞かせてください」


 音羽がメモ帳を開いた。俺が企画を説明する。テーマの候補、お便りの選定基準、曲のリスト。音羽が頷きながらメモを取る。


 業務連絡。安全な会話。核心から最も遠い場所。


 三十分ほど構成を詰めて、一段落した。


 沈黙が来た。いつもなら軽い沈黙だ。でも今日の沈黙には、薄い膜のようなものが張っていた。触れたら破れる。破れたら、中のものが溢れ出す。


真白(ましろ)くん」


「ん」


「土曜日は楽しかったです」


 音羽がまっすぐ前を向いたまま言った。本のページに視線を落として。でも目が文字を追っていないのは分かる。ページがめくられていない。


「ああ。楽しかった」


「射的が当たったのが嬉しくて」


「音羽、筋がいいんじゃないか。初めてで当てるのは普通じゃない」


「夏希さんが教え方上手だったからです」


 音羽の声のトーンが、いつもと違った。


 少し高い。少し早い。


 高い声は嬉しいときの声だ。早い声は緊張しているときの声だ。音羽の声を半年間聴いてきた俺にはその違いが分かる。


 嬉しくて、緊張している。


 祭りが楽しかった、という話をしている。でも声が語っているのは、祭り全体の楽しさではない。もっと限定的な、特定の瞬間の記憶。


「……花火、きれいでしたね」


「ああ」


「人が多くて、ちょっと怖かったですけど」


「……はぐれかけたしな」


「はい」


 沈黙。二秒。三秒。


「でも、大丈夫でした」


 音羽の声が、さらに少し高くなった。


 それ以上は言わなかった。俺も聞かなかった。


 でも「大丈夫でした」の理由は、二人とも分かっていた。


 帰り道。一人で歩きながら、考えた。


 触れた理由。


 はぐれそうだったから。これは事実。でも全部ではない。


 音羽の姿が人混みに消えかけた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。焦り。恐怖。見失いたくないという衝動。あの感情に名前をつけるなら。


 分析では答えが出ない。


 声のトーンで感情を読み取って、お便りの文面から心理を推測して、放送の構成をロジカルに組み立てる。それが俺のやり方だった。分析して、理解して、言語化する。


 でも、あの瞬間は違った。分析する前に手が動いた。理解する前に触れていた。言語化する余地がなかった。


 思考より先に身体が動く。それは分析の領域ではない。


 なら、何の領域だ。


 答えは分かっている。十九話目の自覚から、ずっと分かっている。


 ただ、分かっていることと、受け入れることと、行動に移すことは、全部違う段階だ。


 俺は今、どの段階にいるのか。


 右手を見た。音羽の手首を掴んだ手。もう温度は残っていない。秋の夜気に冷やされて、普通の手に戻っている。


 でも、記憶は残っている。細い手首。速い脈拍。あの鼓動が自分のものなのか音羽のものなのか分からなかったこと。


 分析では答えが出ない。


 なら、もう分析するのはやめよう。


 次に音羽の前に立ったとき、言葉ではなく声で伝えること。考えるのではなく感じること。それが多分、今の俺に必要なことだ。


 多分。まだ「多分」がつく。でも、「多分」の確度は日に日に上がっている。

分析では答えが出ない。それに気づいたことが、たぶん、答えに一番近い。

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