夏希と澪
幼馴染が放送室にやってきた。遠慮のない質問が、壁を一枚ずつ溶かしていく。
中間テストが終わった翌日の放課後。
放送室のドアを開けると、音羽澪が先に来ていた。いつものことだ。俺より早い。椅子に座って本を読んでいる。
「お疲れ」
「お疲れさまです。テスト、どうでしたか」
「数学が死んだ」
「……真白くん、理系じゃなかったですか」
「理系でも数学が死ぬことはある」
「……そうですか」
音羽の表情が微かに緩んでいた。同情しているのか面白がっているのか、判別がつかない。たぶん後者だ。
来週の放送の構成を相談していたとき、廊下から足音が聞こえた。
遠慮のない足音。教室を横切るときと同じテンポ。聞き覚えがある。
ドアが開いた。
「おーい、陸。いる?」
橘夏希が放送室に顔を突っ込んでいた。
「……何しに来た」
「見学。放送室って入ったことないから」
夏希が部屋に入ってきた。狭い室内をぐるっと見回す。ミキサー卓、マイク、CDプレーヤー、窓。
「へー。意外とちゃんとしてるじゃん」
「何を想像してたんだ」
「もっとボロいかと思ってた」
失礼なやつだ。
音羽が椅子から立ち上がっていた。本を閉じて、夏希の方を向いている。顔がわずかに強張っている。教室モードに近い。
「……橘さん、ですよね」
「うん。橘夏希。陸の幼馴染。よろしくね」
夏希が手を差し出した。音羽が一瞬だけ俺の方を見て、それから夏希の手を握った。
「音羽です。よろしくお願いします」
「放送、毎週聴いてるよ。音羽さんの声好き。落ち着く」
「……ありがとうございます」
音羽の声がまだ硬い。でも完全に閉じてはいない。夏希の声質が効いているのかもしれない。夏希の声は裏表がない。言葉の通りの感情がそのまま乗っている。
「座っていい? 椅子ある?」
「桐谷先生の部屋から持ってくる。待ってろ」
隣の部屋から椅子を持ってきた。三脚目。瀬戸のとき以来だ。
夏希が座って、音羽の方に身を乗り出した。
「ねえ音羽さん。陸って放送室だとどんな感じ? 教室だとずっと無口でさ」
「……放送室でも、基本は無口です」
「やっぱり」
「でも、放送が始まると声が変わります。マイクの前だと、ちゃんと言葉が出てくるんです」
「へー。それ教室じゃ絶対見られないわ」
俺のことを目の前で分析するのはやめてほしい。
「音羽さんは逆に、教室と放送室で差があるよね。教室だとほとんど喋らないけど、放送だとすごくしっかり話してる」
「……放送室だと、安心できるので」
「安心できる場所があるのは大事だよね」
夏希の声にからかいがなかった。真っ直ぐに受け止めている。
音羽の表情が少しずつ和らいでいくのが見えた。夏希には瀬戸とは違う種類の「場を開く力」がある。瀬戸は明るさで空気を変えるが、夏希は率直さで壁を溶かす。
「音羽さん、先週の放送で失敗の話してたじゃん。あれ聴いてすごいなって思った。自分の弱いとこ見せるのって勇気いるよね」
「……真白くんが先に見せてくれたから、私も見せられました」
「陸が?」
夏希が俺の方を見た。少し驚いた顔。
「あんたが先に自分の弱さ見せたの?」
「……順番は音羽が先だ。俺はその翌週に話した」
「でも、音羽さんに過去を話したのは放送より前でしょ。じゃないと放送で語れるわけがない」
鋭い。夏希は直感で本質を突く。
「……まあ、そうだ」
「ふーん」
夏希が含みのある目で俺と音羽を交互に見た。
「いい関係じゃん」
「……放送部の相方だからな」
「はいはい。相方ね」
瀬戸と同じ反応。同じ「はいはい」。周囲の人間は全員、俺が自分に嘘をついていることに気づいている。
しばらく三人で話した。夏希が音羽にいろいろ質問して、音羽が少しずつ答えていく。好きな本。好きな音楽。最近観た映画。音羽の答えは短いが、夏希が上手に広げていく。
「音羽さん、ピアノ弾けるんだよね。陸から聞いた」
「……はい。昔は」
「すごい。私は楽器全滅。リコーダーすらまともに吹けない」
「リコーダーは簡単ですよ」
「簡単じゃないって。穴の位置覚えられないもん」
音羽が小さく笑った。夏希と音羽のテンポが合い始めている。
その光景を横で見ていた。音羽が俺以外の人間と放送室で笑っている。瀬戸のときとは違う感覚だった。嫉妬はない。夏希は女子だから、という単純な理由ではなく、夏希と音羽の間に生まれている空気が「友達」のものだったからだ。
音羽に、友達ができるかもしれない。
それは素直に嬉しかった。
夏希が時計を見て「そろそろ帰るわ」と立ち上がった。音羽と連絡先を交換して、ドアに向かう。
俺も廊下に出た。椅子を戻すために。
その瞬間、夏希が俺の袖を引いた。
「ちょっと」
声をひそめている。放送室のドアを半分閉めて、廊下側で。
「何だ」
「あんた、あの子のこと好きでしょ」
心臓が喉まで跳ね上がった。
「……うるさい」
「否定しないんだ」
「否定も肯定もしてない」
「否定しないことが肯定なんだけど」
夏希が俺の目を覗き込んだ。幼馴染の目。小学生の頃から変わらない、嘘を見逃さない目。
「……今はその話をする場所じゃない」
「分かってる。でも一つだけ言っとく」
夏希が声をさらに落とした。
「あの子も同じ顔してたよ」
「……何の話だ」
「あんたの話をしてるとき。声のトーンが変わるの。嬉しそうっていうか、安心してるっていうか」
夏希が袖から手を離した。
「まあ、頑張んなさい」
「だから何をだ」
「放送部の活動を、でしょ?」
にやりと笑って、夏希は廊下を歩いていった。瀬戸と同じ台詞。同じ笑み。
椅子を戻して放送室に戻ると、音羽が少しだけ赤い顔をしていた。
「……橘さん、面白い方ですね」
「昔からああだ。遠慮がない」
「でも、話しやすかったです。不思議と」
「夏希はそういうやつだ。壁を作らせない」
「……真白くんと似てますね」
「どこがだ」
「壁を作らせないところ」
俺は壁を作らせないんじゃなくて、音羽が俺の前で壁を下ろしてくれているだけだ。
でもそれを言葉にすると、意味が重くなりすぎる。だから黙った。
帰り道。夏希の言葉が頭の中で反響していた。
「あの子も同じ顔してたよ」。
夏希の直感は外れない。小学生の頃からそうだった。
でも、直感が正しいからといって、行動に移せるかは別の問題だ。
「あんた、あの子のこと好きでしょ」。否定しなかった。できなかった。




