昨日の続き
傷を見せ合った翌日。何が変わるかと思ったら、沈黙が軽くなっていた。
過去を共有した翌日。
何が変わるのかと思っていたが、放送室の空気は穏やかだった。
ドアを開ける。音羽がいる。「こんにちは」「こんにちは」。椅子に座る。本を開く。
同じ空間。同じ時間。でも一つだけ違うことがあった。
沈黙が、軽くなっていた。
前は沈黙の中に微かな緊張があった。読んでいる本のことか、放送の準備のことか、何かを話す理由を探しているような空気。
今は、何も探していない。黙っていても居心地がいい。二人とも過去を見せた後だから、隠すものが減ったのかもしれない。
「……昨日の放送、反響すごいですよ」
音羽がスマホの画面を見ながら言った。
「お便りの数が」
「何通」
「数えるのをやめました。桐谷先生が回収箱をもう一つ用意したそうです」
「……また増えたのか」
「真白くんの話が響いたんだと思います」
「音羽の前の回があったからだろ。下地を作ったのは音羽だ」
「……そうですかね」
「そうだ」
譲らない。音羽が先に勇気を出してくれたから、俺も話せた。それは紛れもない事実だ。
お便りを少し読んだ。内容は重いものが多い。「自分もいじめられた経験があります」「声を上げたくても上げられなかった」「二人の話を聴いて泣きました」。
一通、目に留まるものがあった。
「『二人の声を聴いていると、傷ついた者同士が支え合っているのが伝わってきます。声に力をもらいました。ありがとう』」
読み上げた後、しばらく黙った。
「……俺たちは、支え合ってるのかな」
「……分かりません。でも」
音羽が言葉を選んでいた。
「一人では出せなかった声が、二人なら出せた。それは事実です」
「……ああ」
「だから、支え合っているんだと思います。意識していなくても」
俺は頷いた。
支え合っている。パーソナリティ同士として。放送部の仲間として。
……それだけか?
音羽の手の温度を、まだ覚えている。昨日、俺の手の上に重ねられた掌。その柔らかさと温かさが、手の甲にまだ残っている。
あれは支え合いだったのか。友情だったのか。それとも。
「真白くん」
「ん」
「手、まだ震えてますよ」
「え」
自分の手を見た。本を持っている右手が、微かに震えている。
「……寒いからだ」
「十月にしては暖かい日ですけど」
「体質だ」
「嘘ですね」
「……うるさい」
音羽が笑った。いつもの控えめな笑い。でも今日の笑いには、少しだけ甘さが混じっていた。
甘さ。そんな形容を使う自分に驚いた。音羽の笑いが甘い。どうかしている。
帰り支度の時間。音羽がドアの前で立ち止まった。最近これが定番になっている。帰り際に何か一言交わしてから出ていくのが、いつの間にか習慣になっていた。
「真白くん」
「ん」
「昨日からずっと考えてたことがあるんですけど」
「何だ」
「真白くんが過去を話してくれたとき、手を、その」
音羽が目線を逸らした。耳が赤い。
「重ねてしまって。すみませんでした。勝手に」
「……謝ることじゃない」
「でも、急に触って」
「嫌じゃなかった」
言った。声に出した。
音羽が息を飲んだ。
「嫌じゃなかった、というか。あれがなかったら、たぶん俺は最後まで話せなかった」
「……」
「音羽の手がそこにあったから、声が止まらずに済んだ。だから、ありがとう」
音羽の目がまた潤んだ。今度は堪えられなかったらしく、一粒だけ涙がこぼれた。すぐに手の甲で拭った。
「……泣くなよ」
「泣いてません」
「今拭いたじゃないか」
「目にゴミが入っただけです」
「十月の放送室は埃っぽいからな」
「……はい。埃のせいです」
二人とも嘘だと分かっている。分かっていて、嘘を共有している。
音羽が深呼吸をして、顔を上げた。
「それじゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
音羽が出ていった。
一人の放送室。椅子が二脚。テーブルの上にはお便りのクリアファイル。窓からの夕日が、ミキサー卓の上に橙色の帯を描いている。
五月に初めてこの部屋を見つけたときと、同じ光景だ。
でも、五月の俺は一人だった。今は、一人じゃない。
ここに来れば音羽がいる。音羽の声が聴ける。音羽の笑い声が聴ける。音羽の手の温度を覚えている。
それが日常になっている。当たり前になりつつある。
当たり前を失うのが怖い。だから、言えない。
でも「いつか」は、もう「今」に近づいている気がする。
「嫌じゃなかった」。たったそれだけの言葉が、涙を一粒、こぼさせた。




