あの日のこと ── 陸
「余計なことをするな」。その言葉が、ずっと喉に刺さっていた。今日、初めて声にする。
翌週の木曜日。昼休み。放送室。
マイクの前に座っている。赤いランプが灯っている。
一曲目を流した。お便りを二通読んだ。先週の音羽の告白への反応が大量に届いていて、読み切れないほどだった。「勇気をもらいました」「私も同じ経験があります」「応援しています」。
音羽が「ありがとうございます」と小さく応えた。声は安定していた。先週より、はるかに。
二曲目が終わる。フリートークの時間。
俺の番だ。
息を吸った。吐いた。隣の音羽がこちらを見ているのが分かった。
「先週、相方が自分の過去を話してくれました。だから今日は、俺の話をします」
マイクに向かって話す。スピーカーの向こうの、顔の見えないリスナーに向かって。
「中学二年のとき。同じクラスに、友達がいました」
友達。片桐。名前は出さない。
「その友達が、いじめられていました。陰湿なやり方で。目に見えない暴力で」
声が自分の耳に返ってくる。平坦じゃない。でも震えてもいない。感情を乗せすぎず、かといって殺しもしない、ぎりぎりの声。
「俺は、やめろと言いました。クラス全員の前で。声を上げました」
あの日の記憶。教室。全員の目。自分の声が教室に響いた瞬間。
「でも、タイミングが最悪だった。担任が介入して、友達が『チクった』と見なされた。いじめは止まるどころか、悪化しました」
隣の音羽の呼吸が止まった気がした。ほんの一瞬だけ。すぐに戻った。
「友達に言われました。『余計なことをしないでくれ。お前のせいでもっとひどくなった』」
その言葉を口にするのは、何年ぶりだろう。喉が熱い。
「友達はその後、転校しました。最後まで『ありがとう』とは言われなかった」
放送室の沈黙。マイクが拾っているのは、俺の呼吸だけ。
「俺はそれから、余計なことを言わないようになりました。声を上げると人を傷つける。善意でも、タイミングを間違えれば凶器になる。だから黙っていた方がいい。……そう思って、ずっと口を閉じてました」
息を吸う。ここからが、今日一番言いたかったこと。
「でも、この放送部に入って。隣に、同じように声が怖い人がいて」
音羽の方を見た。音羽がこちらを見ていた。目が揺れていた。
「その人が声を出してくれるたびに、俺も声を出していいんだと思えるようになりました」
マイクの前で、リスナーに向けて語っている形をとっている。でも、この言葉の宛先は隣の椅子に座っている一人だけだ。
「声は人を傷つけることもある。それは本当です。でも、声でしか届かないものもある。黙っていたら、何も届かない。間違えても、声にした方がいい」
音羽が前の放送で語った言葉と、重なる。
「先週、相方がそのことを身をもって示してくれました。俺も、見習いたいと思います」
最後の曲を流した。マイクをミュートにする。
手が震えていた。気づいたのは曲が流れ始めてからだった。膝の上に置いた手が、細かく震えている。
隣から、温かいものが触れた。
音羽の手だった。
俺の震える手の上に、音羽の手がそっと重ねられていた。握っているのではなく、ただ乗せている。体温だけが伝わってくる。
言葉はなかった。音羽は何も言わなかった。
でも、手の温度が全部言っていた。聴いた。受け取った。大丈夫。
最後の曲が終わる。マイクのスイッチを切る。赤いランプが消える。
音羽が手を離した。指先が俺の手の甲をかすめて、膝に戻る。
「……ありがとう、ございました」
音羽の声がかすれていた。泣いてはいないが、泣くのを堪えた声だった。
「聴いてくれて、ありがとう」
「……私が言いたい台詞です」
「先に言ったもの勝ちだ」
「……ずるいです」
音羽が少しだけ笑った。目尻が濡れていた。
俺も笑った。自分でも予想しなかったくらい、自然に笑えた。
片づけを終えて、放送室を出る。廊下を歩きながら、さっきのことを思い返した。
手を重ねられた。音羽の手が、俺の手に。
それは慰めだったのか。共感だったのか。それとも、もっと別の。
考えるのはやめなかった。今日は、考えることから逃げない。
音羽の手の温度が、まだ手の甲に残っていた。
手の上に重ねられた温度。言葉のない返事。それが、今まで受け取った中で一番確かな「ありがとう」だった。




