あの日のこと ── 澪
声が出なくなったあの日のこと。初めてマイクの前で、自分の過去を語る。
リハーサルの準備と並行して、放送は続いていた。
十月第二週の木曜日。テーマは「誰かにもらった言葉」。
放送中、お便りを読み終えた後のフリートークの時間。俺がテーマについてコメントし、音羽が相槌を打つ。その流れの中で、音羽が口を開いた。
「……私も、もらった言葉があります」
台本にはない発言だった。
「中学三年のとき、合唱コンクールのソロを任されました」
放送室の空気が変わった。音羽が、放送の中で自分の過去を語り始めた。
マイクは生きている。この声は校舎中に流れている。
「本番のステージで、声が出なくなりました。何秒間か、完全に黙ってしまいました」
音羽の声は平坦だった。でもいつもの蓋をする平坦さとは違う。意図的に感情を制御して、言葉を一つずつ丁寧に並べている声だった。
「クラスは入賞を逃しました。誰にも責められなかったけど、自分が一番自分を責めました」
俺はマイクの前で黙っていた。割り込む場所がなかった。音羽の言葉は、俺に向けてではなく、スピーカーの向こうにいるリスナーに向けて発せられていた。
「それから、人前で声を出すのが怖くなりました。話しかけられても、うまく返せなくなりました。転校もしました」
沈黙。一秒。二秒。
「でも、この放送部に入って。隣にいてくれる人と一緒に声を出して。お便りをもらって。聴いてくれる人がいるって分かって」
音羽の声が、わずかに揺れた。
「もらった言葉があるんです。中学の担任の先生が、卒業のときに言ってくれた言葉。そのときは受け取れなかったけど、今なら受け取れる気がします」
「……何て言われたんだ」
俺が聞いた。パーソナリティとして。
「『声は、あなただけのものじゃない。聴いてくれる人のものでもある。だから、怖くても出していい』」
放送室の中で、その言葉が反響した。防音の壁に吸われて消える前に、マイクが拾ってスピーカーに送った。
「……いい言葉だな」
「はい。今なら、分かります」
音羽の声が安定した。揺れが収まっている。語尾が消えずに残っている。
放送を終えた。マイクを切る。赤いランプが消える。
音羽が椅子に深く座り直した。全身の力が抜けたように見えた。
「……大丈夫か」
「……はい。大丈夫です」
「すごかったぞ。自分から過去を話すなんて」
「……放送の中で話した方がいいと思ったんです。リスナーに向けて話す形なら、一対一で打ち明けるより楽だったので」
「……なるほど」
「あと、真白くんに先に話していたから。一度言葉にしたことは、二度目の方が楽でした」
俺がいたから楽だった、というニュアンスが含まれていた。直接は言わないが、声のトーンが言っていた。
「放送後のポストに、たぶんお便りが殺到する」
「……そうですかね」
「間違いなく。音羽が自分の経験を語ったのは初めてだ。リスナーは反応する」
「……怖いような、嬉しいような」
「両方あっていい」
音羽が頷いた。
片づけをしながら、俺は考えていた。
音羽が過去を語った。放送で。マイクの前で。全校生徒に向けて。
これは小さなことじゃない。合唱コンクールで声が出なくなった音羽が、数百人に向けて自分の失敗を語った。放送室の防音壁の中からではあるが、声は校舎中に届いた。
そして次は俺の番だ。
音羽が自分の過去を開いた。約束した。俺も話す、と。
「音羽」
「はい」
「来週の放送で、俺も話す」
「……」
「俺の過去。中学のとき、声を上げて失敗した話」
音羽が目を見開いた。
「……いいんですか」
「音羽が先に話してくれたから。俺だけ閉じたままでいるわけにはいかない」
「無理はしなくていいです。急がなくても」
「急いでない。俺がそうしたいから、そうする」
音羽が俺を見つめていた。暗褐色の目が、夕日の残光で淡く光っていた。
「……分かりました。来週、聴きます」
「ああ」
「真白くんの声で、聴きたいです」
……やっぱりこの人は、言葉の選び方が反則だ。
帰り道。イヤホンはつけなかった。外の音を聴いていた。
来週。俺の番だ。
中学の片桐のこと。声を上げたこと。状況を悪化させたこと。「余計なことをするな」と言われたこと。
あの経験を、放送で語る。音羽がいる放送室で。マイクの前で。
怖い。正直に言えば怖い。
でも音羽が先に踏み出した。あの震える声で、全校生徒に向けて過去を語った。
俺が黙っていたら、音羽だけが裸でステージに立っていることになる。
隣にいる、と言ったのは俺だ。
なら、隣に立つ。同じ場所に。
一度言葉にしたことは、二度目の方が楽だった。それは、最初に聴いてくれた人がいたから。




