音羽の壁
全校生徒の前。それは中学の悪夢の再演だ。でも、今は一人じゃない。
翌日。教室で音羽を見た。窓際の席で本を読んでいる。いつもと変わらない姿。
でも、昨日の告白を知っている俺の目には、少し違って見えた。あの静かな佇まいの奥に、合唱コンクールの日の沈黙が眠っている。
放課後。放送室。
ドアを開けると、音羽がミキサー卓の前に座っていた。本ではなく、学園祭の企画書フォーマットを見ている。
「……考えてるのか」
「はい」
音羽が企画書を指でなぞっていた。「場所:体育館」の文字の上で指が止まる。
「真白くん。一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「真白くんは、公開放送をやりたいですか」
質問を質問で返された。
考える。俺がやりたいかどうか。
正直に言えば、俺にとってのハードルは音羽ほど高くない。人前で話すこと自体は、放送で毎週やっている。顔が見えるかどうかの違いはあるが、致命的ではない。
問題は音羽だ。音羽が壊れるかもしれない場所に、音羽を連れていくことになる。
「……音羽が怖いなら、やらない」
「質問の答えになっていません」
「……」
「真白くんの気持ちを聞いています。私のことは、一旦置いてください」
音羽の声がいつもより強かった。放送室で使う声ではなく、意志を伝える声。
「……やりたいと思う」
正直に答えた。
「この番組を、もっと多くの人に届けたい。放送室の中だけじゃなく、直接声を届けたい。リスナーの顔を見ながら話してみたい。……そう思う」
「……」
「でも、それは音羽がいるからだ。俺一人じゃ成り立たない。音羽が怖いなら、別の形を探す」
音羽が企画書をテーブルに置いた。手を膝に戻す。
「怖いです」
「……ああ」
「体育館のステージを想像するだけで、喉が詰まります。あの日のことを思い出します」
「……」
「でも」
音羽が顔を上げた。
「真白くんが隣にいるなら。この放送室で声を取り戻したように、体育館でも取り戻せるかもしれないって。……そう思いたいんです」
「思いたい」
「思えるかどうかは、まだ分かりません。でも、最初から逃げるのは嫌です」
音羽の手がまだ震えていた。企画書を持っていたときから、ずっと。でも声は震えていなかった。手と声が別々のことを言っている。手は怖がっている。声は前に進もうとしている。
「……じゃあ、こうしよう」
俺はプリントの裏に、ペンで簡単な図を描いた。
「いきなり全校生徒の前はハードルが高すぎる。段階を踏もう」
「段階」
「まず五人。夏希と瀬戸と、あと数人を集めて、放送室でリハーサルをする。それで大丈夫だったら十人。十人が大丈夫なら三十人。三十人がいけたら、本番」
「……段階的に人数を増やしていく、ということですか」
「ああ。いきなり百メートルを走るんじゃなく、十メートルから。無理だと思った段階で止めればいい。止めたことは、恥ずかしいことじゃない」
音羽がプリントの裏の図を見つめていた。五→十→三十→本番。シンプルな矢印が並んでいる。
「……やってみたいです」
声が小さかった。でも、消えなかった。
「やり、たいです」
語尾が一瞬詰まった。入部したときの「やり、ます」と同じ。怖い。でもやりたい。その二つが同時に声に乗っている。
「分かった。桐谷先生にOKを出そう。ただし条件付きで。リハーサルの期間を確保してもらう」
「……はい」
「音羽。一つ約束する」
「……何ですか」
「本番で音羽の声が出なくなっても、俺がカバーする。一人で全部喋る。だから、声が出なくなることを怖がる必要はない。最悪、俺がいる」
音羽が目を瞬かせた。二回、三回。
「……ずるいです。そういうこと言われたら、やるしかないじゃないですか」
「それが狙いだ」
「……分かってます」
音羽が小さく笑った。目が潤んでいた。今度は蛍光灯のせいにはできなかった。
「ありがとう、ございます」
「何度目だそれ」
「何度でも言います」
音羽がまっすぐ俺を見ていた。暗褐色の目。夕日の光を受けて、わずかに明るくなっている。
この目を見ていると、言いたいことが全部喉元まで上がってくる。好きだ。音羽が好きだ。声も、目も、震える手も、それでも前に進もうとする意志も、全部。
飲み込んだ。今はまだ。
公開放送の話をしている最中に告白するのは、場面が違う。音羽が過去と向き合おうとしているときに、自分の感情をぶつけるのは間違っている。
順番がある。
まず、音羽が体育館のステージで声を出すこと。
それが終わったら。
「……じゃあ、来週からリハーサルの準備を始めよう」
「はい」
「まずは五人を集める。夏希と瀬戸に声をかける」
「……私からも、お願いしていいですか」
「誰に」
「……桐谷先生。先生に見ていてほしいです」
「もちろんだ。先生は最初からいてくれる」
音羽が頷いた。企画書をクリアファイルにしまう手が、まだ微かに震えていた。
でも、顔は前を向いていた。
五人。十人。三十人。本番。段階を踏めば、百段の階段も一段ずつ上れる。隣に誰かがいるなら、なおさら。




