公開放送の話
体育館のステージ。全校生徒の視線。それは音羽にとって、最も恐ろしい場所だった。
十月後半。学園祭まであと一ヶ月。
桐谷先生が放送室に来た。手に一枚のプリントを持っている。
「二人に相談があるの」
先生はプリントをテーブルの上に置いた。学園祭の企画書フォーマット。
「生徒会から正式に依頼が来たわ。学園祭で公開放送をやってほしい、って」
公開放送。
俺と音羽が同時にプリントに目を落とした。
「場所は体育館のステージ。時間は四十五分間。内容は自由。『放課後のふたりごと』の特別版、という位置づけよ」
「体育館、ですか」
音羽の声が細くなった。一瞬で。
体育館。全校生徒が入れる場所。客席から何百もの目が、ステージの二人に向けられる。
教室のスピーカーから流れる声と、目の前の生身の人間から発せられる声は、全く違う。ラジオのリスナーは顔が見えない。公開放送では見える。
「もちろん、無理にとは言わない。断っても全然構わないわ」
桐谷先生が音羽の表情を見て、すぐにフォローした。先生は事情を知らないはずだが、音羽が大勢の前で話すことに壁があることは察しているのだろう。
「少し、考えさせてください」
俺が答えた。音羽の代わりに、ではなく、俺自身の判断として。
「ええ、もちろん。返事は来週でいいわ」
先生が去った後、放送室に沈黙が落ちた。
プリントがテーブルの上に残っている。「学園祭ステージ企画書」の文字が、蛍光灯の光を反射していた。
「……音羽」
「……はい」
「無理はしなくていい」
「……」
「体育館で全校生徒の前に出るのは、今の放送とは全く違う。断っても誰も何も思わない」
「……」
音羽は黙っていた。膝の上の手が組まれている。指先が白い。
五秒。十秒。十五秒。
「真白くん」
「ん」
「中学のとき、合唱コンクールでソロを歌うはずだったんです」
心臓が止まった。
音羽が、自分から過去の話を切り出した。今まで「昔は」の先で必ず止まっていた話を。蓋をしていたはずの場所を、自分の手で開けようとしている。
「……ああ」
「ステージに立って、客席を見た瞬間。声が出なくなりました」
音羽の声は平坦だった。蓋をしているときの声。でもいつもと違って、蓋を意識的にかけている。感情を制御しようとしている。
「何秒くらいだったのか分かりません。たぶん十秒とか。でも、永遠みたいに感じました。全校生徒の目が全部私に向いていて、会場が完全に静まり返って。自分の心臓の音しか聞こえなくて」
「……」
「指揮者の子が、途中からソロなしで進行してくれました。クラスは入賞を逃しました。誰にも直接責められなかったけど」
音羽が息を吸った。吐いた。
「自分で分かったんです。私は、人を失望させた。期待されていたのに、それに応えられなかった」
「……」
「それから、大勢の前で声を出すのが怖くなりました。転校したのも、いろいろありましたけど、それが一番大きかったです」
放送室の静寂が、いつもと違う重さを持っていた。防音の壁が、音羽の声だけを閉じ込めている。
「だから、公開放送は。……正直に言うと、怖いです」
音羽がこちらを見た。目が揺れていた。でも涙は出ていない。揺れているのは、恐怖と何か別のもの。
「でも」
「でも?」
「……逃げたくない、とも思ってるんです。自分でも、びっくりしてますけど」
音羽の声が、平坦から少しだけ温度を取り戻した。
「放送部に入って、声を出すことが少しだけ怖くなくなった。お便りを読んで、相槌を打って、コメントして。その一つ一つが、あの日の自分からちょっとずつ離れていく感じがしたんです」
「……ああ」
「だから。すぐには答えを出せないけど、考えさせてください」
「もちろんだ。何も急がなくていい」
俺はそれ以上何も言わなかった。
音羽が過去を話してくれた。自分から。初めて。
その重さが分かるから、軽い言葉は返せない。「大丈夫だよ」とか「一緒に頑張ろう」とか、そういう簡単な励ましは、今の音羽には薄っぺらく響く。
だから黙っていた。
音羽も黙っていた。
放送室に、二人分の沈黙が満ちていた。行き詰まりの沈黙ではなく、何かを共有した後の、温かい沈黙。
「……真白くん」
「ん」
「話を、聞いてくれてありがとうございます」
「……俺は聞いただけだ」
「聞いてくれたから、言えたんです」
音羽の声が震えた。泣きそう、ではなく、感情が声の制御を超えた震え。前にも一度あった。声を聴いてもらったのは初めて、と言ったとき。
「いつか、俺も話す」
俺は言った。
「俺にも、似たような過去がある。声を出して、失敗した話。まだうまく言葉にできないけど。いつか、ここで、話す」
音羽が目を見開いた。それから、ゆっくりと頷いた。
「……待ってます」
それ以上の言葉は要らなかった。
プリントはテーブルの上に置いたまま、二人とも本を開いた。紙をめくる音が二つ。秒針。十月の夕日。
同じ空間で、同じ時間を過ごす。それだけで伝わるものがある。言葉にしなくても。
でも、いつか言葉にしなければならない日が来る。
音羽の過去も。俺の過去も。そして、二人の間にある名前のつかない感情も。
蓋をしていた場所を、自分の手で開けた。その勇気に返せるのは、同じ勇気だけだ。




