変わらないもの
何もしない放課後。ただ隣で本を読むだけ。それが、一番贅沢な時間だった。
ゲスト回が終わり、通常の放送に戻った。
不思議なことに、ゲスト回の前と後で、放送室の空気は変わらなかった。
瀬戸が来て、賑やかになって、お便りも増えて、リスナーの期待も上がった。でも放送室のドアを閉めて二人きりになった瞬間、全部がリセットされる。紙をめくる音が二つ。時計の秒針。窓からの光。
変わったのは外の世界だ。中は変わらない。
それが安心なのか、停滞なのか。
「真白くん」
「ん」
「今日は、何もしない日にしませんか」
「何もしない」
「お便りの整理も、構成の相談も、取材の準備も。全部なし。ただ本を読むだけの日」
音羽が文庫本を膝の上に置いて、こちらを見ていた。表情は穏やかだが、どこか疲れが見える。取材やゲスト回が続いて、音羽なりに張り詰めていたのかもしれない。
「……いいな。そうしよう」
鞄から文庫本を取り出す。音羽も自分の本を開く。
何もしない放課後。入部したばかりの頃に戻ったみたいだ。あの頃は毎日これだった。放送もない、お便りもない、企画もない。ただ二人で本を読んでいるだけ。
五月の放送室と、十月の放送室。同じ部屋で同じことをしているのに、全く違う時間が流れている。あの頃は他人同士の沈黙だった。今は、同じ空気を吸い慣れた二人の沈黙。
三十分ほど経った。音羽が本から顔を上げた。
「……真白くん」
「ん」
「同じ本を読んでます」
「え?」
音羽が文庫本の表紙をこちらに向けた。俺も自分の本を確認する。
同じ本だった。
違う版元だから装丁は異なるが、タイトルも著者も同じ。短編集。
「……いつ買った」
「先週です」
「俺もだ」
「……また被りましたね」
「選曲だけじゃなく、本まで」
「好みが似てるだけ、ですか」
「……たぶん」
音羽が小さく笑った。「たぶん」に込められた嘘を、二人とも分かっている。
「どこまで読みました?」
「三つ目の話の途中」
「私は四つ目です。三つ目、良いですよ」
「ネタバレはやめてくれ」
「しません。でも、読み終わったら感想聞きたいです」
「……ああ」
それだけの会話だった。それだけの会話の後、二人ともまた本に目を落とした。
でも、ページをめくる速度が少し上がっている気がした。音羽が「良い」と言った三つ目の話を早く読みたいからだ。読み終わったら感想を言い合える。それだけのことが、読書の速度を変えている。
一人で読むのと、隣に同じ本を読んでいる人がいるのとでは、全く違う体験だった。
四時半。三つ目の話を読み終わった。
「……読んだ」
「どうでした」
「……良かった。最後の一行が」
「分かります。あそこで全部ひっくり返されますよね」
「ああ。途中まで、てっきり別の結末だと」
「私もです。読みながら『違う、そっちじゃない』って」
音羽の声が弾んでいた。好きなものについて話すときの声。半音高くて、語尾がはっきり残る。CDを選んでいたときと同じトーン。
俺も自分の声が普段より滑らかになっているのが分かった。本の話だと、構えずに話せる。音羽のことを意識する余裕がないくらい、内容に集中しているからだ。
「四つ目はもっとすごいですよ」
「だからネタバレはやめろって」
「してません。すごい、としか言ってません」
「それがもう期待値のコントロールだろ」
「……そうかもしれません」
音羽がくすっと笑った。くすっ、という擬音がそのまま聞こえるような、小さくて柔らかい笑い声。
この声が好きだ。
思った。抵抗なく、自然に。もう否定する気もない。
音羽の笑い声が好きだ。嬉しいときの半音高い声が好きだ。安心しているときの柔らかい声が好きだ。本の感想を語るときの弾んだ声が好きだ。
全部、好きだ。
認めている。自分の中では。
でも声にはしない。まだ。
「……明日までに四つ目読んでくる」
「楽しみにしてます」
帰り支度。いつもの「それじゃあ、また明日」。
今日は何もしない日だった。放送の準備もせず、取材もせず、お便りも読まず。ただ並んで本を読んで、感想を少しだけ交わした。
それだけの時間が、ここ数週間で一番心が凪いでいた。
変わらないもの。取材をしても、ゲストが来ても、リスナーが増えても。放送室のドアを閉めて、二人で本を読む時間。これだけは変わらない。
変わらないでほしい、と思っている自分がいる。
同時に、変わりたい、とも思っている。
この矛盾をどうすればいいのか、まだ分からない。
同じ本を読んでいた。選曲が被り、本まで被る。「偶然」の貯金は、もう底をついている。




