校内を歩く
放送室を出て、廊下を並んで歩く。それだけのことが、心臓に悪い。
月曜日。放課後。初めての校内取材。
放送室で録音機材――といってもスマホとイヤホンマイクだが――を準備してから、音羽と廊下に出た。
並んで歩く。
それだけのことが、妙に新鮮だった。
放送室ではいつも向かい合うか、横に並んでいる。距離は一メートル以内。でもあの部屋は防音の壁に守られた閉じた空間で、外から見られることがない。
廊下は違う。すれ違う生徒がいる。見られている。「放送部の二人」として認識されている。
「……なんか、緊張しますね」
音羽が小声で言った。
「取材がか」
「それもありますけど。真白くんと廊下を歩くのが初めてなので」
「……そうだったか」
「そうでした。教室から出るのはいつも別々ですし」
確かに。俺と音羽が並んで校舎を歩いている姿を、クラスメイトが見たら驚くかもしれない。教室では接点のない二人が、いきなり連れ立って歩いているのだから。
「瀬戸に見つかったらたぶん何か言われるな」
「……何を言われるんですか」
「『お前らいい感じじゃん』とか」
「……それは、事実に基づかない推測ですね」
「事実に基づかない」
「はい。私たちは取材中です」
「……そうだな。取材中だ」
音羽の横顔を見た。まっすぐ前を見て歩いている。耳が赤いのは、気のせいではなさそうだ。
図書室に着いた。放課後の図書室は、五、六人の生徒が静かに本を読んでいた。カウンターに司書の木村先生がいる。四十代の穏やかな女性で、いつも本を勧めてくれる。
「すみません。放送部の取材でお時間いただけますか」
「放送部? ああ、『放課後のふたりごと』の。聴いてますよ、毎週」
先生が聴いてくれていたのか。少し恥ずかしい。
「ありがとうございます。図書室について、いくつか質問させてください」
「ええ、どうぞ」
俺が質問して、音羽がスマホで録音する。図書室の歴史、人気の本、この場所をどう思うか。木村先生は穏やかに、でも丁寧に答えてくれた。
「この図書室は、生徒にとって安全な場所でありたいと思っているんです。教室が居心地悪いと感じる子も、ここに来れば一人になれる。でも完全に一人ではなくて、本が隣にいてくれる」
木村先生の言葉に、俺は放送室のことを思い出した。似ている。静かで、安全で、でも完全に一人じゃない場所。
隣を見ると、音羽も同じことを考えていたらしい。目が少し潤んでいた。
取材は三十分ほどで終わった。木村先生にお礼を言って、図書室を出る。
廊下を歩きながら、音羽が録音データを確認していた。
「綺麗に録れてますね。先生の声、聴き取りやすいです」
「編集は俺がやる。放送で使える長さに切って、前後にコメントをつける」
「私もコメント、入れていいですか」
「もちろん。図書室の取材なんだから、音羽の感想があった方がいい」
「……はい。木村先生の話、すごく響きました。『完全に一人ではなくて、本が隣にいてくれる』って」
「……ああ。俺もそこが刺さった」
「放送室もそうですよね。完全に一人じゃなくて」
音羽が言葉を切った。何か続けようとして、やめたのが分かった。
完全に一人じゃなくて。その先にある言葉は「真白くんが隣にいてくれる」だろうか。想像しすぎか。想像しすぎだろう。でも音羽の声のトーンが、安心のそれだったのは確かだ。
「次の取材先、考えてあるか」
「美術室を考えています。美術部の生徒に、作品について話を聞きたくて」
「美術室か。一対一ならいけそうか」
「……頑張ります」
音羽が控えめに拳を握った。ガッツポーズ、というほどの勢いはない。でも意志の表明だった。
放送室に戻ってきた。ドアを開けた瞬間、防音の壁に包まれて外の音が消える。いつもの静寂。
「……帰ってきた、って感じがしますね」
「ああ。ここが一番落ち着く」
椅子に座る。向かい合う。いつもの距離。
でも今日は、この距離がいつもより近く感じた。さっきまで廊下を並んで歩いていたせいかもしれない。放送室の外で音羽と隣にいる感覚を知ってしまったせいで、内側の距離感も変わった。
音羽が録音データを再生した。スマホのスピーカーから木村先生の声が流れる。放送室の中で、外で録った音を聴く。不思議な感覚だった。
「ここの部分、使いたいです。『安全な場所でありたい』のくだり」
「賛成。あとは前後を少しカットして、三分くらいにまとめよう」
「はい」
編集作業を二人で進める。スマホの画面を覗き込みながら、カットポイントを話し合う。
近い。画面を二人で見るから、必然的に頭が寄る。音羽の髪が視界の端で揺れている。シャンプーの匂いが、かすかに。
集中しろ。編集に集中するんだ。
「……真白くん」
「ん」
「ここ、少し間が空いてますけど」
「どこ」
「この……ここです」
音羽がスマホの画面を指さした。その指先を追って視線を動かしたとき、距離が近すぎることに気づいた。顔と顔が、二十センチもない。
音羽も気づいた。
同時に体を引いた。椅子が軋んだ。二つの軋み音が、防音の部屋に響いた。
「……すまん」
「いえ」
「……編集の続きは、各自のスマホでやるか」
「……はい。それが、いいと思います」
沈黙。時計の秒針。
俺はスマホを自分の手元に引き寄せた。画面を見る。編集ポイントの数字が並んでいるが、頭に入ってこない。
心拍が落ち着くまで、三十秒かかった。
「……取材、良かったと思う。来週の放送で使おう」
「はい。……楽しかったです」
「楽しかった?」
「はい。校舎を歩いたのも。先生の話を聞いたのも。放送室に戻ってきたのも」
「全部じゃないか」
「……全部、楽しかったです」
音羽の声が、嬉しいときのトーンだった。半音高くて、語尾が残る。
俺も。全部楽しかった。だがそれを声にすると、何かが決定的に変わってしまう気がして。
「……ああ。俺も、悪くなかった」
「悪くない」で済ませた。卑怯だ。自覚している。
音羽が小さく笑った。声だけで分かった。本で顔を隠していたけれど。
放送室の中だけだった世界が、廊下一本分だけ広がった。その一本分が、やけに長く感じる。




