二学期の声
二学期。澪の声が、初めて放送室の外に向かって届く日。
二学期最初の放送日。木曜日。昼休み。
赤いランプが灯る。
「放課後のふたりごと、始めます」
自分の声が、夏休み前より落ち着いていることに気づいた。慣れたのか、それとも放送室に戻ってきた安心感がそうさせているのか。
一曲目を流す。夏休み中に音羽と選んだフリーのピアノ曲。明るすぎず暗すぎない、九月の空気に合った旋律。
曲が終わる。お便りコーナー。
ここまではいつも通りだ。違うのは、今日のお便りに対するコメントを音羽が担当するということ。
前の放送のあと、俺が提案した。音羽自身の言葉で、自分の声で、リスナーに語りかけてほしい、と。
お便りを一通読み上げた。テーマ「夏休みにあったこと」。
「『夏休み、初めてひとりで遠出しました。不安だったけど、帰ってきたら少しだけ自分が好きになれた気がします』」
読み終えて、間を取った。隣を見る。
音羽がマイクに向き合っていた。背筋が伸びている。膝の上の手は握られているが、白くなるほどではない。
三秒。五秒。
「……すごく、分かります」
音羽の声が、マイクを通してスピーカーに乗った。
「不安なまま一歩踏み出して、何かが変わる。変わったのは世界じゃなくて、自分の方で。……私も、今年の春にそういう経験をしました」
声が小さい。でも消えてはいない。一語一語を選んで、丁寧に並べている。
「放送部に入ったとき、すごく怖かったです。でも……声を出してみたら、聴いてくれる人がいて。それが、嬉しくて」
音羽の声が揺れた。揺れたが、止まらなかった。
「だから、お便りをくださった方にも伝えたいです。一歩踏み出した自分を、好きになっていいと思います」
沈黙。一秒。二秒。
俺は次の曲を流した。音楽が放送室を満たす。
マイクをミュートにしてから、小さく言った。
「……良かった」
音羽がこちらを見た。目が潤んでいた。でも泣いてはいなかった。緊張と達成感が混じった、見たことのない表情だった。
「……震えて、ませんでしたか」
「震えてなかった。声、まっすぐ届いてた」
「……そうですか」
音羽が膝の上の手をゆっくり開いた。掌に爪の跡がついていた。
……震えてなかった、は嘘だ。声は確かに揺れていた。でもそれは弱さではなく、本気で言葉を選んでいる証拠だった。完璧に滑らかな声より、ずっと伝わるものがあった。
放送の残り時間は音楽で埋めた。最後のマイク。
「来週のテーマは、『秋にしたいこと』です。お便り、待ってます」
赤いランプが消えた。
片づけをしながら、俺は音羽の横顔を見ていた。CDをケースに戻す手つきが、いつもよりゆっくりだ。余韻に浸っている、という感じ。
「音羽」
「はい」
「来週もやるか。音羽のコメント」
「……いいんですか」
「リスナーも聴きたがってたし。実際、今日のコメントは俺には言えない言葉だった」
事実だ。「一歩踏み出した自分を好きになっていい」なんて、俺の口からは出てこない。それは音羽だから言えた言葉で、音羽の声だから届いた言葉だ。
「……分かりました。やります」
語尾が消えなかった。
入部したときの「やり、ます」とは違う。迷いが消えたわけではないだろうが、迷いを押してでも声を出す覚悟が、語尾に残っていた。
「ありがとうございます、真白くん」
「何がだ」
「隣にいてくれたから、声が出ました」
「……俺は座ってただけだ」
「座ってたから、です」
音羽がこちらを見て、笑った。口元だけじゃなく、目も。
……勘弁してくれ。そういう顔をされると、座ってるだけじゃいられなくなる。
帰り支度。ドアの前で音羽が立ち止まった。
「真白くん」
「ん」
「声を出すのが怖くなくなったわけじゃないです」
「……ああ」
「でも、怖いまま声を出すことは、できるかもしれないって。今日、思いました」
怖いまま声を出す。怖くなくなるのを待つんじゃなくて、怖いまま踏み出す。
それは音羽だけの話じゃない。俺にも当てはまる。伝えたいことがある。伝えるのが怖い。でも、怖いまま声にすることは、できるかもしれない。
「……ああ。俺も、そう思う」
音羽が出ていった。
放送室の椅子に座ったまま、俺は天井を見上げていた。
二学期が始まった。放送は続く。音羽の声が、少しずつ放送室の外に広がっていく。
それは嬉しい。嬉しいはずだ。
でも同時に、俺の声は、まだ一番大事なことを言えていない。
怖くなくなるのを待っていたら、一生声は出せない。怖いまま出すしかない。それを教えてくれたのは、隣にいた人の背中だった。




