紙をめくる音が、二つ
会話が成立するための最低条件は、二人いることだ。ただし二人いれば成立するとは限らない。
翌日から、無言の共存が始まった。
放課後になると放送室に行く。ドアを開ける。音羽がいる。「……」「……」。各自の椅子に座る。各自の本を読む。五時半になると音羽が「お先に、失礼します」と言い、俺が「ああ」と答える。以上。
一日の会話量、およそ三語。
この生活が五日続いた。
コミュニケーションとして成立しているかは正直怪しい。だが、不思議と苦痛ではなかった。音羽は放送室の空気を乱さない。本を読むときの姿勢がいいせいか、椅子が軋む音すら最小限で、意識しなければそこにいることを忘れそうになる。
忘れそうになる、だけで、忘れることはなかった。
たとえば。音羽がページをめくる間隔が長いときは、内容に集中しているときだ。短くなったときは、たぶん退屈しているか、内容が軽いか。時々ページの途中で手が止まる。気に入った一文を反芻しているんだろう。俺にも覚えがある。
……なぜ他人の読書ペースなんか把握しているのか。
防音の部屋で二人きりだと、相手の立てる些細な音がやたら鮮明に聞こえる。それだけだ。別に観察しようとしたわけじゃない。
六日目。月曜日。
教室で昼休みに弁当を食べていると、前の席の瀬戸が椅子ごと振り返ってきた。
「なあ真白。お前、放送部だって?」
瀬戸颯太。サッカー部。クラスの中心に自然と居るタイプで、裏表がなく、誰とでも壁なく話す。俺のような隅っこの人間にもフランクに声をかけてくる。嫌なやつではない。ただ、眩しい。
「まあ、一応」
「一応って。入ったんだろ?」
「部室があるから入っただけだ」
「お前らしいわ」
瀬戸は笑った。嫌味のない笑い方だった。
「でもさ、放送部ってことは放送するんだろ?」
「月に一回、何か流せばいいらしい」
「へえ。音羽さんも一緒なんだよな」
名前が出てきて、箸が一瞬止まった。すぐに動かす。
「同じ部だからな」
「あの子、気になるんだよな。教室だと全然喋らないじゃん。でも、なんか雰囲気あるっていうか」
「雰囲気」
「うまく言えないけど。落ち着いてるっていうか、芯がある感じ?」
瀬戸は自分の弁当に視線を戻しながら続けた。
「あと声がいいよな。自己紹介のとき、ちょっとしか聞けなかったけど」
「……そうか」
自己紹介のときの音羽の声。確かに、俺もそれだけが印象に残っていた。ぎこちなくて、途中で細くなって、最後は消えかけた声。
でも瀬戸が言う「いい声」と、俺が覚えている音羽の声は、同じものを指しているんだろうか。
「まあ放送楽しみにしてるわ。いつやるの?」
「今月中には、たぶん」
「おっけ。スピーカーつけとくわ」
瀬戸は弁当の最後のひと口を放り込んで、にっと笑ってから自分の椅子を戻した。
弁当の残りを食べながら、俺は教室の奥をちらっと見た。
窓際の席。音羽は一人で本を読んでいた。周りの賑やかさの中で、彼女のいる一帯だけ空気が凪いでいるように見える。
教室での音羽は、放送室での音羽とは違った。いや、同じ人間なのだから違うはずがないのだが、纏っている空気が違う。教室では何かを閉じている。薄いガラスの壁を一枚、自分と世界の間に立てているような。
放送室ではあの壁がほんの少しだけ薄くなる。たとえば文庫本を丁寧に閉じる仕草とか、帰り際の「お先に」の声のトーンとか。そういう微かな部分で。
――いや。そんなことはどうでもいい。
今考えるべきは月末の放送内容だ。何を流すか、二人で決めないといけない。そのためには、音羽と会話をする必要がある。三語じゃなく、もう少しだけ長い会話を。
放課後。
放送室に入ると、音羽はもう椅子に座っていた。いつもの位置。いつもの姿勢。
俺はもう一脚の椅子に座り、鞄からノートを出した。白紙のまま広げて、テーブルの上に置く。いつもは文庫本を出すところを、ノートにした。この違いに気づいてほしい、というのはさすがに都合が良すぎるか。
音羽の視線がノートの方に動いたのが、視界の端で分かった。
本を開かない俺を不審に思ったのか、それとも白紙のノートが気になったのか。
こちらから切り出すしかなさそうだ。
「……放送、月末だけど」
「……はい」
「何をするか、考えてたか」
音羽は文庫本を膝の上に伏せた。目がわずかに泳ぐ。
「……考えては、いたんですけど」
「うん」
「……思いつかなくて」
正直だった。
「俺もだ」
それを聞いて、音羽の肩がわずかに下がった。安堵なのか、落胆なのか。
白紙のノートを二人で見つめる。秒針が刻む音だけが流れる。
これは良くないな、と思った。このまま黙っていたら、放送当日まで何も決まらないまま突入することになる。それだけは避けたい。即興で何かを喋れるようなスキルは、俺にも音羽にもない。
「……桐谷先生は、音楽を流すだけでもいいと言ってた」
「音楽、ですか」
「棚にCDがある。先代の放送部員が残したやつ」
俺は立ち上がって壁際の棚に向かった。背表紙が色褪せたCDケースが二十枚ほど並んでいる。J-POPのベスト盤、クラシックのコンピレーション、映画のサウンドトラック。どれも十年以上前のものだ。
「好みに合うのがあるか分からないけど」
「……見ても、いいですか」
「もちろん」
音羽が椅子から立って、棚の前に来た。俺の隣に並ぶ形になる。
近い。
いや、棚を共有しているのだから物理的にはこの距離が自然だ。文庫本を読んでいるときはテーブルを挟んで一メートル以上離れているから、それと比較して近く感じるだけだ。
音羽の指がCDケースの背表紙を一枚ずつたどっていく。丁寧な動作だった。端から順に、一枚も飛ばさずに確認している。
その手が一箇所で止まった。
ケースを引き抜いて、裏面の曲目リストに目を落とす。ピアノの小品集。ドビュッシーやサティの曲が入っている。
「……これ、好きです」
声が変わった。
それまでの「はい」とも「思いつかなくて」とも違う。音量は相変わらず小さいのに、声の芯がはっきりしている。語尾が消えずに、空気の中にそのまま残っている。
好きなものの話をするとき、人の声は変わる。それは知っている。でも、音羽の変化は分かりやすすぎた。まるでスイッチが入ったみたいに、声の質そのものが切り替わる。
「ピアノが好きなのか」
「……はい。少し、弾いて……昔は」
「昔は」のあとに、沈黙が落ちた。
聞くべきか。聞かないべきか。声の温度がさっきとは逆に、急激に下がったのが分かった。「好き」と言ったときの輝きとは正反対の、何かに蓋をするような静けさ。
俺は聞かなかった。
「じゃあ、それを軸にしよう。あと何枚か選んで、十五分分になるように組めばいい」
音羽が顔を上げた。蓋が閉じかけていた目が、少しだけ開く。
「……はい」
その「はい」は、いつもの消えかけの「はい」ではなかった。
選曲はスムーズに進んだ。音羽が選んだピアノ曲を最初と最後に置いて、間にJ-POPを挟む。CDプレーヤーで曲の出だしだけ確認するたびに、音羽が小さく頷いたり、かすかに首を振ったりする。
その反応だけで、何が合っていて何が違うのか不思議と伝わった。
一時間ほどで、十五分のプレイリストが完成した。
「……できましたね」
「ああ。あとは月末に再生ボタンを押すだけだ」
音羽が小さく息を吐いた。安堵と緊張が混じった、微妙な吐息。
帰り支度をしながら、俺はさっきの出来事を反芻していた。CDを選んでいるときの音羽は、これまでで一番多く声を出していた。「はい」以外の言葉を、何度も。
好きなものがある人間は、それについて語るとき、少しだけ扉を開く。音羽にとってのそれが音楽なら、ラジオという場所は、思ったより悪くないのかもしれない。
――いや。べつに俺が音羽の扉を開けたいとか、そういう話じゃない。月一の放送を乗り切るための、実務的な発見だ。
実務的な発見。うん。そういうことにしておこう。
選曲という共同作業を経て、会話量は三語から約二十語に増えた。進歩と呼ぶには控えめだが、ゼロとは決定的に違う。




