瀬戸颯太の笑顔
夏休みの終わり。始業式の日に、見たくなかったものを見た。
八月末。夏休み最終日。
この四十日間で、音羽とのメッセージは三百通を超えた。選曲の話、宿題の話、読んだ本の話、天気の話、クッキーの話。
放送室にも三回行った。毎回、二学期の準備という建前で。実際に準備は進んだ。プレイリストは十月分まで組み終わっている。
USBメモリの音楽は何十回も聴いた。音羽のジムノペディ。途中で止まるところ。毎回そこで胸が締まる。
九月一日。始業式。
教室に入ると、夏休みの日焼けと成長の痕跡が散らばっていた。背が伸びたやつ、髪を切ったやつ、雰囲気が変わったやつ。
音羽の席を見た。まだ来ていない。
自分の席に着く。ノートを広げる。始業式まで時間がある。
教室のドアが開いた。
音羽が入ってきた。
髪が少し伸びていた。肩の下から、背中の上の方まで。夏の間に伸びたのだろう。それ以外は変わらない。白い肌。細い体。控えめな足取り。
俺の席の横を通り過ぎるとき、一瞬だけ目が合った。音羽の唇がかすかに動いた。声にはならなかったが、「おはようございます」の口の形だった。
俺も小さく頷いた。教室では、まだこれが精一杯だ。
始業式が終わり、教室に戻る。
その帰り道で、見たくなかったものを見た。
瀬戸が音羽に話しかけていた。
廊下の角。階段の踊り場。瀬戸が笑顔で音羽の前に立っている。音羽は半歩引いた位置で、瀬戸の話を聞いている。
「――夏休み、どこか行った?」
「……特には。家にいることが多かったです」
「もったいないな。来年は海とか行こうぜ。クラスで」
「……はあ」
「放送部のラジオ、夏休み中に録り溜めとかしてたのか?」
「いえ。選曲の準備を少し」
「まじめだな。さすが音羽さん」
瀬戸の笑顔に嫌味はなかった。いつも通り、裏表のない笑顔。音羽に対して自然体で接している。
音羽の声は平坦だった。教室モードの声。ガラスの壁を挟んだ向こう側の声。でも、拒絶はしていない。瀬戸の話を聞いている。答えている。
俺は廊下の向こう側を通り過ぎた。声はかけなかった。
教室に戻って、席に着いた。
胸の奥で、何かがざわついていた。
嫉妬。
という言葉が浮かんで、即座に否定した。嫉妬する理由がない。俺と音羽はパーソナリティ同士で、部活の仲間で、メッセージを交わす友人で。瀬戸が音羽に話しかけるのは自由だし、音羽が瀬戸と話すのも自由だ。
自由だ。分かっている。
分かっているのに、ざわつきが消えない。
瀬戸の笑顔が、頭にこびりついている。あの自然体の笑顔。俺にはできない笑い方。教室で音羽に声をかけることすらできない俺と、何の躊躇もなく話しかけられる瀬戸。
その差が、今まで気にならなかったものが、急に重く感じられた。
放課後。放送室。
ドアを開ける。音羽がいる。二ヶ月間見慣れた光景が戻ってきた。
「久しぶりの放送室ですね」
「ああ。夏休み中にも来たけど、学期が始まってからは初めてだ」
「窓からの光が変わりましたね。夏より低い位置から入ってきます」
「九月だからな」
九月の夕日は、五月のそれより赤みが強い。ミキサー卓の上に落ちる影の角度も変わっている。同じ部屋なのに、季節が違うだけで印象が変わる。
二学期最初の放送に向けて、構成を確認する。テーマは「夏休みにあったこと」。鉄板だ。お便りも既に募集を始めていて、初日から十通近く届いている。
作業を進めながら、俺は今朝のことを思い出していた。瀬戸と音羽。廊下の角。
聞いてしまうかもしれない。聞くべきじゃない。でも、口が先に動いた。
「今日、瀬戸と話してたな」
「え」
音羽が手を止めた。
「始業式の後。廊下で」
「……はい。瀬戸くんが話しかけてきて」
「そうか」
「夏休みの話を少ししただけです」
「ああ。別に聞いてるわけじゃないんだけど」
聞いてるわけじゃない、と言いつつ聞いている。矛盾の塊だ。
音羽が俺を見た。じっと。いつもの観察する目。
「……真白くん」
「何だ」
「声、低くなってます」
「……は?」
「不機嫌なときの声です」
見抜かれた。一発で。
「不機嫌じゃない」
「嘘です」
「嘘じゃない」
「声が言ってます」
音羽が静かに、でもはっきりと言い切った。声は嘘をつけない。俺がそれを音羽に教えて、音羽がそれを俺に返してくる。因果応報だ。
「……別に、瀬戸と話すなとか言うつもりはない」
「分かってます」
「瀬戸はいいやつだし、音羽と話すのは自然なことだし」
「はい」
「俺がどうこう言う立場じゃない」
「……」
音羽が黙った。
数秒の沈黙の後、音羽が小さな声で言った。
「真白くん。私は放送室でしか、こうして話せません」
「……」
「教室では、まだ壁があります。瀬戸くんに話しかけられても、うまく返せません。真白くんとメッセージで話すみたいには、いきません」
「……」
「だから」
音羽が便箋を一枚手に取って、テーブルの上に置いた。整理作業に戻る動作だが、目は俺を見ていた。
「真白くんの場所は、誰にも取られません」
心臓がうるさい。
「真白くんの場所」。それが何を指しているのか。放送部のパーソナリティの席か。音羽にとっての「声を聴いてくれる人」のポジションか。それとも、もっと別の。
「……分かった」
それしか言えなかった。
音羽は何も言わず、お便りの整理に戻った。
俺も作業に戻った。
放送室に、紙をめくる音が二つ。秒針。九月の夕日。
何も変わっていない。変わったのは、俺の中だけだ。
瀬戸に対して感じたあのざわつき。あれは嫉妬だ。認めよう。嫉妬だった。
嫉妬する理由は一つしかない。
音羽のことが好きだ。
……まだ口には出せない。声にはできない。でも、自分の中では認めた。
音羽のことが好きだ。声も、笑い方も、メモ帳の字も、クッキーも、ジムノペディも。全部。
認めた途端、放送室の空気が少しだけ甘くなった気がした。気のせいだ。たぶん。
嫉妬は醜い感情だ。でも、嫉妬するほど大切な相手がいることは、たぶん幸福だ。




