夏休みの放送室
夏休みの学校は、別の惑星みたいに静かだ。その中で、放送室だけが息をしている。
夏休みが始まって一週間。
メッセージのやり取りは毎日続いていた。
最初は選曲の相談だけだった。「この曲どうですか」「いいな。二学期に使おう」。業務連絡。
三日目あたりから、内容が逸れ始めた。
「今日見つけた曲です。放送には合わないかもしれないけど、好きです」
「聴いた。確かに放送向きではないけど、悪くない」
「真白くんの『悪くない』は、かなり気に入ってるときの言い方ですよね」
「……なぜ分かる」
「テキストでも声が聞こえます」
テキストで声が聞こえる。音羽らしい言い方だった。
五日目には、曲と関係ない話もするようになった。
「宿題、進んでますか」
「数学が死んでる」
「私は英語が終わりました。数学教えましょうか」
「音羽が数学できるイメージがないんだけど」
「……失礼ですね。成績、真白くんより上です」
「……マジか」
「マジです」
こういうやり取りが、日に三往復、五往復、十往復と増えていった。放送室で交わす会話の何倍もの量を、テキストで交わしている。
声は聞こえない。でも音羽の文面には、声のトーンが透けている。丁寧な言葉遣いの中に、時々くだけた表現が混じる。それが嬉しそうなときの音羽だ。
一週間目。約束通り、放送室で会うことにした。
「二学期の放送に向けて、プレイリストを組みたい」
それが建前だ。建前であることは、たぶんお互い分かっている。
夏休みの学校は異様に静かだった。部活動をしている生徒がまばらにいるだけで、校舎の大半は無人だ。廊下を歩く自分の足音がやけに響く。
放送室の前に着いた。ドアを開ける。
音羽がいた。
制服ではなかった。白いブラウスに紺のスカート。私服。当たり前だ。夏休みなのだから制服を着る必要はない。
でも、制服以外の音羽を見るのは初めてだった。
「……こんにちは」
「こんにちは」
声を聞いて、安堵した。テキストでは分からなかったものが、声を聞いた瞬間に戻ってくる。音羽の声のトーン、呼吸の間、言葉の温度。
椅子に座る。向かい合う。いつもの配置。
でも、いつもと違うことがいくつかあった。
まず、音羽が少し日焼けしていた。肌の色がほんのわずかに暗くなっている。
「どこか行ったのか」
「……近くの公園を、散歩してただけです。でも日差しが強くて」
「帽子かぶれ」
「……はい」
それから、テーブルの上にタッパーが置いてあった。
「……それは」
「あの。クッキーを焼いたんですけど。よかったら」
音羽がタッパーの蓋を開けた。中に丸いクッキーが並んでいる。形は不揃いだが、焼き色は均一で香ばしい匂いがする。
「……お前、料理もできるのか」
「クッキーは料理に入りますか」
「お菓子作りは料理のカテゴリだろ」
「……じゃあ、できます。少しだけ」
一枚手に取って食べた。バターの風味がしっかりしていて、甘さは控えめ。さくさくとした食感が心地いい。
「うまい」
「……本当ですか」
「声は嘘をつけないんだろ」
「……はい。本当みたいですね」
音羽が笑った。口元だけじゃなく、目も。最近、音羽の笑顔を見る頻度が上がっている気がする。
クッキーを食べながら、二学期のプレイリストを組む。夏休み中にそれぞれが見つけた曲をスマホで聴き比べる。イヤホンを片耳ずつ分けて、同じ曲を同時に聴く。
近い。
イヤホンを共有しているから、必然的に距離が近くなる。肩と肩の間が十センチくらいしかない。音羽の髪から、シャンプーだか何かの匂いがかすかにする。
曲に集中しろ。集中するんだ。
「……この曲、出だしがいいですね」
「ああ。ピアノのアルペジオが綺麗だ」
「二学期の最初の放送に使いたいです」
「いいな。これを一曲目にしよう」
作業は進んだ。二時間ほどで、二学期最初の三回分のプレイリストが完成した。
イヤホンを外す。距離が元に戻る。十センチが一メートルに。
「……あ。そうだ」
音羽が鞄から何かを取り出した。小さなUSBメモリ。
「前に言ってた、聴いてほしい曲です」
「準備ができたってやつか」
「はい」
USBメモリを受け取った。ラベルには何も書いていない。
「何の曲?」
「帰ってから聴いてください。ここでは、恥ずかしいので」
「恥ずかしい?」
「……はい」
音羽が視線を逸らした。耳が赤い。
恥ずかしい曲。音羽が俺に聴いてほしい曲。帰ってから聴けということは、反応を直接見られたくないということだ。
「……分かった。帰ってから聴く」
「感想は……メッセージで、いいですか」
「ああ」
USBメモリをポケットにしまった。軽い。数グラム。でも、妙に存在感がある。
帰り支度をして、放送室を出た。夏休みの校舎は、夕方になるとさらに静まり返る。廊下に人影はなく、自分たちの足音だけが響く。
下駄箱。
「じゃあ、また」
「はい。また連絡します」
「ああ。……クッキー、ごちそうさま」
「……お口に合ったなら、よかったです」
校門を出て、別々の方向に歩き出す。
帰宅。部屋に入る。鞄を置く。パソコンを起動する。USBメモリを挿す。
中にはファイルが一つだけ入っていた。
MP3ファイル。タイトルは「ジムノペディ第一番」。
最初の放送で流した曲だ。サティのジムノペディ。音羽が選んだ一曲。
再生ボタンを押す。
ピアノの音が流れ出した。
違った。
CDの音源とは全く違う。演奏が違う。テンポが少し揺れている。タッチが繊細で、一音一音に迷いと覚悟が混じっている。プロの演奏ではない。もっと生々しくて、もっと近い音。
音羽が、弾いたのだ。
「昔は」弾いていたピアノ。中学の途中でやめたピアノ。
それを、もう一度弾いた。
曲の途中で、一箇所だけ音が途切れるところがあった。0.5秒ほどの空白。弾き直したのか、手が止まったのか。でもすぐに音が戻って、旋律は最後まで続いた。
三分半。曲が終わった。
俺はヘッドフォンを外して、椅子の背もたれに体を預けた。
天井を見る。部屋の蛍光灯。放送室のそれとは違う光。
スマホを手に取った。メッセージを打つ。
何を書けばいい。「良かった」じゃ足りない。「すごい」は安っぽい。「感動した」は大げさだ。
一分ほど考えて、打った文字は短かった。
「途中で音が止まったところ。あそこが一番良かった」
送信。
一分。二分。三分。
返信が来た。
「あそこで手が震えて、止まってしまいました。録り直そうかと思ったけど、やめました」
もう一通。
「完璧じゃなくても、声にした方がいいって。前のお便りの人が言ってたから」
完璧じゃなくても、声にした方がいい。間違えても、黙ってるより百倍いい。
お便りの言葉が、音羽の指を動かした。
返信を打つ。
「また聴かせてくれ」
送信。
返信は早かった。
「はい。二学期に」
それだけだった。それだけで十分だった。
USBメモリの中の音を、もう一度再生した。音羽のジムノペディ。途中で止まるところ。震える指。それでも最後まで弾ききった音。
これが「声」だ。音羽の声だ。言葉ではなく、音楽として出てきた声。
イヤホンから流れるピアノの音を聴きながら、俺は目を閉じた。
放送室の夕日が、瞼の裏に浮かんだ。
完璧な演奏ではなかった。途中で止まったし、震えていたし、プロには程遠い。でも、それが音羽の声だった。




