何もなかったように
翌日、放送室のドアを開けるのが怖かった。開けた先の空気がどう変わっているのか、分からなかったから。
一晩中、考えていた。
考えていた、というのは語弊がある。考えようとして、考えがまとまらなかった、が正確だ。
音羽の「声が好きです」が頭の中でリフレインする。反芻するたびに温度が上がる。そのたびに「声が好き、と言っただけだ」と自分でブレーキをかける。ブレーキをかけて冷静になったところで、もう一度リフレインが始まる。
永久機関かよ。
朝。鏡を見たら顔色が悪かった。寝不足だ。明らかに寝不足だ。
教室に入る。音羽の席を見ないようにする。見ないようにしている時点で意識しているのだが、意識していることを意識しないようにする。何重にもねじれた自意識が気持ち悪い。
授業中、何度か後ろを振り返りそうになった。全部こらえた。
昼休み。購買に行く。瀬戸に話しかけられる。
「お前、顔色悪くないか。夜更かしでもした?」
「……まあ」
「テスト勉強か」
「……そういうことにしておいてくれ」
「ふーん。まあ無理すんなよ」
瀬戸は深追いしなかった。助かった。
放課後。
二階の廊下を端まで歩く。放送室の前に立つ。
ドアノブに手をかけた。掌が湿っている。緊張だ。自分の放送室のドアを開けるだけで緊張するなんて、どうかしている。
開けた。
音羽がいた。いつもの席。いつもの文庫本。
こちらを見上げた。
「……こんにちは」
普通だった。いつも通りの声。いつも通りのトーン。何もなかったみたいに。
「……ああ。こんにちは」
俺もいつも通りに返した。椅子に座る。本を出す。
紙をめくる音が二つ。時計の秒針。窓からの夕日。
何も変わっていない。
本当に?
十分ほど経った。音羽が口を開いた。
「来週の放送、テーマを決めないといけませんね」
「……ああ。そうだな」
「候補、考えてきました」
「見せてくれ」
音羽がメモ帳を開いた。いつもの白いメモ帳。丁寧な字で三つの候補が書いてある。
「『夏休みの予定』『好きな食べ物』『朝派か夜派か』」
「……どれも当たり障りないな」
「当たり障りないのを選びました」
音羽の目が、一瞬だけ何かを語った。昨日の「声が好きです」の後で、重いテーマは避けたかったのだろう。お互いのために。
「じゃあ『夏休みの予定』にしよう。一学期最後の放送にちょうどいい」
「はい」
構成を決める。お便りを選ぶ。プレイリストを組む。いつもの作業。いつもの分担。音羽がCDを確認して、俺がメモに書き出す。
作業をしている間は楽だった。手と頭を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。
でも、手が止まる瞬間がある。
たとえば、音羽が俺にCDケースを渡すとき。指先が一瞬だけ触れた。二ミリくらい。0.5秒くらい。
それだけのことで、心臓が跳ねた。
……馬鹿か。
音羽は何も言わなかった。気づいていないのか、気づいていて何も言わないのか。後者だとしたら、音羽も同じ種類の動揺を隠しているのかもしれない。
あるいは、俺の自意識過剰。そっちの方が可能性は高い。
五時過ぎ。構成が決まった。
「じゃあ来週はこれで」
「はい」
音羽が鞄にメモ帳をしまった。立ち上がる。帰り支度。
「真白くん」
「ん」
「昨日のこと」
体が強張った。来た。
「……ああ」
「変に意識させてしまったなら、すみません」
音羽の声は平坦だった。いつもの「蓋をする」トーンではなく、努めて冷静に保っている声。似ているが違う。蓋は感情を閉じ込める動作で、今の音羽は感情を制御しようとしている。
「声が好き、というのは本当です。でもそれで真白くんが困るなら、言わなかったことに」
「困ってない」
即答した。
音羽が目を瞬かせた。
「困ってないし、言わなかったことにする必要もない」
声が出た。思ったより力強く。自分でも驚いた。
「音羽が俺の声を好きだと言ってくれたことは。その。嬉しかった。のは、事実だから」
ぎこちない。致命的にぎこちない。文法が崩壊している。でも嘘は言っていない。
音羽がこちらを見つめていた。暗褐色の目が、窓からの夕日を受けてわずかに明るくなっている。
「……本当ですか」
「声は嘘をつけないんだろ。今の俺の声、聴いてみろ」
音羽が耳を澄ますように、少しだけ首を傾けた。
数秒の沈黙。
「……本当、みたいですね」
「だろ」
「はい。声が、嬉しそうです」
「……うるさい」
音羽が笑った。口元だけじゃなく、目も笑っていた。放送室で見る音羽の笑顔の中で、一番はっきりした笑顔だった。
「じゃあ、なかったことにはしません」
「……ああ」
「それじゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
音羽が出ていった。
一人になった放送室で、俺は両手で顔を覆った。
顔が熱い。手のひらが冷たく感じるくらい、顔が熱い。
嬉しかった。は。事実だから。って何だ。中学生の告白か。
いやそもそも告白でもなんでもない。「声が好き」と言われて「嬉しい」と答えただけだ。それだけの会話。それ以上の意味は。
……ある。
ある、と思った自分に、もう嘘はつけなかった。
窓の外は茜色に染まっていた。七月の夕日。長い夏の始まり。
明日から夏休みに入れば、放送もない。放送室に来る理由もない。音羽に会う口実もない。
それが少し、怖かった。
何もなかったように振る舞おうとして、何もなかったわけではないことを、二人とも分かっている。それが最初の一歩なのかもしれない。




