雨の日の放送室
梅雨の最後の大雨。帰れない口実が、そこにあった。
七月第二週。梅雨明け直前の、最後の集中豪雨。
午後の授業が終わる頃には、窓の外が白いカーテンで覆われたみたいに何も見えなくなっていた。傘があっても無意味なレベルの雨だ。
六限目のチャイムが鳴ると、教室がざわついた。
「これ帰れなくない?」
「電車止まるやつじゃん」
「体育館で待つか」
クラスメイトたちが口々に帰宅手段を相談している。俺はスマホで電車の運行情報を確認した。案の定、最寄り路線が運転見合わせ。復旧の見込みは一時間後。
一時間。放送室で過ごすにはちょうどいい時間だ。
二階の廊下を歩いて放送室に向かう。途中、窓から見える校庭は水溜まりどころか小さな池になりかけていた。
放送室のドアを開ける。
音羽がいた。
いつもの椅子ではなく、窓際に立っていた。窓を少しだけ開けて、外を見ている。雨音が隙間から流れ込んでいて、いつもの防音の静寂が破られていた。
「電車、止まってるな」
「……はい。私も帰れなくて」
音羽がこちらを振り返った。窓の外の灰色の光が、彼女の横顔を淡く照らしている。いつもの夕日とは違う、冷たくて柔らかい光。
「一時間くらいで復旧するらしい。それまでここで待つか」
「……はい」
椅子に座る。文庫本を出す。いつもの放課後。
でも今日は少し違った。窓が開いているせいで、雨音が絶えず部屋に入ってくる。時計の秒針が雨音にかき消されて聞こえない。
音羽も椅子に座ったが、本は開かなかった。窓の方を見ている。
「雨、好きか?」
「……嫌いじゃないです。音が好きで」
「音」
「雨粒がいろんなものに当たる音。屋根と、地面と、葉っぱと、全部違うじゃないですか」
「確かに」
「耳を澄ますと、ひとつひとつが聞き分けられるんです。今だと……窓に当たってるのと、廊下の屋根に当たってるのと、遠くでグラウンドに当たってるのと」
音羽が目を閉じた。聴いている。本当に、雨の音を聴いている。
俺も目を閉じてみた。
確かに違う。窓のガラスを叩く硬い音、屋根に当たる低い連続音、遠くのグラウンドから反射してくる広い音。全部が混ざっているようで、一つずつ分離している。
「……本当だ。違うな」
「でしょう」
音羽の声が弾んでいた。好きなものについて話すときの声。トーンが半音上がって、語尾がはっきり残る。
「音羽は耳がいいんだな」
「……昔から。音楽をやっていたからかもしれません」
「昔」が出た。でも今日は蓋をする気配がなかった。雨音が部屋を満たしているせいか、いつもより警戒が薄い。
踏み込むべきか。踏み込まないべきか。
踏み込まなかった。代わりに、別の話をした。
「俺は雨の音より、この部屋の静寂の方が好きだな」
「防音の静寂、ですか」
「ああ。外の音が入ってこないから、中の音だけが聞こえる。紙をめくる音とか、時計の音とか」
「……私の相槌とか」
「……まあ、それも」
認めた。認めてしまった。音羽の相槌が、この部屋で聞こえる音の中に含まれていることを。
音羽が窓の外に視線を戻した。横顔が見える。雨に洗われた空気のせいか、輪郭がいつもより鮮明だった。
「真白くん」
「ん」
「この部屋にいると、外の世界がすごく遠く感じます」
「そうだな」
「教室とか、廊下とか。ついさっきまでいた場所なのに、ドアを閉めた瞬間に消えてしまう」
「防音のおかげだな」
「防音だけじゃないと思います」
音羽の声が静かになった。雨音に溶け込むような声。
「この部屋が特別なのは、壁のせいだけじゃなくて。ここにいる人のせいだと、思います」
指先が冷たくなった。いや、逆だ。体温が上がって、指先との温度差が目立っただけだ。
「……どういう意味だ」
「教室では、声を出すのが怖いです。たくさんの人がいて、全員に聞かれてしまう。でもここなら」
音羽が俺の方を向いた。
「聴いてくれる人が、一人だけだから。怖くないんです」
雨音。ガラスを叩く音。屋根を叩く音。遠くのグラウンドを叩く音。
それら全部が一瞬だけ遠のいて、音羽の声だけが残った。
「……俺も、似たようなものだ」
声が出た。自分でも驚くくらい自然に。
「ここでなら話せる。誰かに聴かれる心配がないから、じゃなくて。聴いてくれる人が音羽だから」
言った。言ってしまった。
放送室の空気が、一瞬だけ凍った。
音羽が目を見開いている。唇が微かに開いている。何か言おうとして、言葉が見つからないでいる。
俺も同じだった。自分が何を言ったのか、頭が追いついていない。事実を述べただけだ。放送室で話せるのは音羽がいるからだ。それは友人や仲間としての信頼の表明であって、それ以上の意味は――
「……ありがとう、ございます」
音羽が小さく言った。声が震えていた。でも泣いてはいなかった。
「真白くんの声が、聴けるこの時間が。私にとっても、特別です」
雨音が部屋を満たしている。防音の壁を超えて入ってきた水の音が、今は二人の間を流れるものを覆い隠してくれていた。
何か言うべきだったのかもしれない。でも言葉にすると壊れてしまいそうで、俺は黙った。音羽も黙った。
二人で雨音を聴いた。
十分。二十分。三十分。
文庫本は開かなかった。ただ隣に座って、同じ雨を聴いていた。時々、音羽が「あ、今の音、屋根じゃなくて木の葉です」と言って、俺が「……本当だ」と返す。それだけの会話を、何度か繰り返した。
スマホが振動した。電車の運転再開通知。
「……動いたみたいだ」
「……そう、ですか」
音羽の声に、わずかな名残惜しさが混じっていた。混じっていた、と思うのは俺の願望かもしれない。でも声のトーンは嘘をつけない。
「帰るか」
「……はい」
帰り支度をして、放送室を出る。廊下は蒸し暑かった。雨はまだ降っているが、さっきよりは弱まっている。
下駄箱で靴を替える。傘を開く。
「じゃあ、また明日」
「はい。また、明日」
いつもと同じ挨拶。でも「また明日」の音が、いつもより柔らかかった。俺の声も、音羽の声も。
雨の中を歩きながら、俺はさっき自分が言ったことを反芻していた。
「聴いてくれる人が音羽だから」。
あれは事実だ。事実なのだが、事実以上の何かが含まれていた気がする。
音羽の「特別です」も。
帰り道、傘を叩く雨音が放送室に似ていた。似ているだけで、全然違うのだが。あの部屋には、音羽がいた。
……ここまで考えて、ようやく認めた。
俺はたぶん、認めたくない何かを、もう認め始めている。
雨の日の放送室は、普段とは違う空気を纏う。防音の壁を超えて入ってきた雨音が、二人の境界線を少しだけ曖昧にした。




