リスナーが増えていく
聴いてくれる人が増えるのは嬉しい。嬉しいはずだ。なのに、胸の奥に小さな影が差すのはなぜだろう。
七月。期末テストが終わり、夏休みまであと二週間。
「放課後のふたりごと」は、いつの間にか校内で知られる存在になっていた。
きっかけは「忘れられない言葉」の回だった。あの放送の後、お便りの数が一気に増えた。一週間で四十通を超えた。桐谷先生によると、放送室前のポストでは入りきらないので、職員室に別の回収箱を用意したという。
「すごいことになってますね」
放課後の放送室。音羽がお便りの束を前に、少し圧倒された顔をしている。
「……ちょっと多すぎないか」
「多すぎます」
「読み切れない」
「読み切れないです」
四十三通。テーブルの上を埋め尽くす便箋やルーズリーフ。中にはノートの切れ端に書かれたものもある。
内容も多岐にわたっていた。テーマへの回答だけでなく、番組の感想、パーソナリティへの質問、リクエスト。中には「ラジオネーム」をつけてくる常連リスナーもいる。
「この人、三週連続でお便りくれてますね。ラジオネーム『ミッドナイトウルフ』」
「……中二病っぽいな」
「真白くん、それ放送で言わないでくださいね」
「言わない。たぶん」
整理作業を進める。放送で取り上げる候補を選び、テーマごとに分類する。音羽の手つきは相変わらず丁寧で、一通ずつ内容を確認してから分類する。
ふと、一通の便箋を読んでいた音羽の手が止まった。
「……真白くん」
「ん」
「これ、見てください」
差し出された便箋を読む。
「『いつも放送を聴いています。二人の声を聴いていると、すごく仲がいいんだなって伝わってきます。二人は付き合ってるんですか?』」
パンを噛んでいたら喉に詰まっていたところだ。パンは食べていなかったから無事だが、代わりに空気を飲み込んだ。
「……リスナーの想像力は逞しいな」
「……ですね」
音羽がお便りをテーブルに戻した。その動作が妙にぎこちなかった。
俺も視線をお便りの山に戻す。
付き合ってるんですか。答えはノーだ。俺たちは放送部の仲間で、番組のパーソナリティ同士で、それ以上でもそれ以下でもない。事実としてはそうだ。
ただ、「それ以上でもそれ以下でもない」と自分に言い聞かせなければならない時点で、何かがおかしいのは薄々分かっている。
「……これ、放送で取り上げるか?」
「え」
「冗談だ」
「……冗談に聞こえませんでした」
「聞こえなかったか」
「声が真面目でした」
声で分かるのか。分かるんだろうな。
「……次のお便りを見よう」
「はい」
話題を変えた。だが頭の隅には、あのお便りの一文が残り続けた。
整理を終えて、来週の放送構成を決める。テーマは「夏にやりたいこと」。季節に合わせた軽いテーマだ。
「真白くん、夏にやりたいことはありますか」
「……特にないな。宿題を終わらせるくらいか」
「……堅実ですね」
「音羽は?」
「……海に行きたいです」
「海」
「はい。中学のとき、引っ越してから一回も行けなくて」
音羽が窓の外を見た。夕日が雲の隙間から差し込んでいる。七月の夕暮れは長い。橙色の光がミキサー卓を照らしている。
「前の学校の近くに海があったんです。放課後に堤防に座って、波の音を聴いてました」
「一人で?」
「……はい。一人で」
声のトーンが少しだけ下がった。寂しさとも懐かしさともつかない、複雑な温度。でも蓋をしている感じではなかった。素直に思い出しているだけだ。
「海、いいな」
「真白くんは海、好きですか」
「別に嫌いじゃない。ただ、海に行く相手がいなかっただけで」
言ってから、これは余計な情報だったなと思った。
「……私もです。行く相手が、いなかったです」
二人で窓の外を見た。校舎の向こうに見えるのは住宅街の屋根だけで、海は見えない。
沈黙が流れた。でも気まずい沈黙ではなかった。同じ方向を見て、同じことを考えている沈黙。海のことを。一人だったことを。
その沈黙を破ったのは、廊下から聞こえた足音だった。
「よお、邪魔するぞ」
放送室のドアが開いて、瀬戸が顔を出した。
「瀬戸。どうした」
「今週のラジオの感想を直接言いに来た。あと、リクエスト」
瀬戸はテーブルの上のお便りの山を見て、目を丸くした。
「すげえな。こんなに来てんの?」
「最近増えた」
「そりゃそうだろ。うちのクラスでも半分くらいスピーカーつけて聴いてるぞ」
「半分?」
「マジマジ。女子は結構前から聴いてたみたいだけど、最近は男子も増えてきた。お前の声、なんか良いんだよ。落ち着くっていうか」
瀬戸が俺の隣の椅子に勝手に座った。音羽の席だ。音羽は少し離れた位置に移動して、お便りの整理を続けている。
「音羽さんも最近声出してるよな。前の回の『届けたい相手がいるなら』ってやつ、結構グッときたって言ってるやつ多かったぞ」
音羽がお便りを持つ手を止めた。こちらに視線は向けないまま、耳が微かに赤くなっている。
「……ありがとう、ございます」
「いやこっちこそ。毎週楽しみにしてるわ」
瀬戸は自然体で笑った。音羽にも同じ温度で接している。構えがない。だから音羽も、教室で見せるガラスの壁が少しだけ薄くなっている。
瀬戸と音羽が会話している。俺はそれを横で聞いている。
胸の奥で、小さな何かがざわついた。
名前をつけるのが怖い。つけたら認めることになる。
「じゃ、俺は部活あるから。来週も楽しみにしてるぞ」
瀬戸が立ち上がって、ひらひらと手を振って出ていった。
放送室に二人きりに戻る。
「……瀬戸、いいやつだな」
「……はい。優しい方ですね」
音羽の声に特別なトーンはなかった。普通の、事実を述べる声。
それで安堵する自分がいて、安堵している自分に気づいて、もうわけが分からなくなった。
リスナーが増えた。番組の認知度が上がった。お便りも来る。瀬戸みたいに直接感想を言いに来る人もいる。
嬉しいはずだ。
嬉しい。でも同時に、この放送室が「二人だけの場所」ではなくなりつつあることに、俺はどこかで寂しさを感じている。
放送室の中に外の世界が流れ込んでくる。それは成長だ。いいことだ。閉じた空間にこもっていても何も変わらない。
分かっている。
分かっているのに、次のドアを開けたとき、音羽だけがそこにいてくれたらと思ってしまう自分がいる。
……面倒だな、この感情は。
二人だけの場所に、外の風が入ってきた。それは換気であり、同時に、閉じていた世界が開かれていくということでもある。




