忘れられない言葉
お便りを読んでいるだけのはずだった。なのに、音羽の声が震えたのは、他人の言葉に自分を重ねたからだ。
木曜日。放送本番。
テーマは「忘れられない言葉」。届いたお便りは過去最多の二十五通。言葉にまつわるテーマは、思った以上に反響が大きかった。
「多いな」
「みなさん、言いたいことがあったんだと思います」
音羽がお便りを選別しながら言った。二十五通全部は読めないから、放送で取り上げるのは五通にした。笑えるもの、しんみりするもの、共感を呼びそうなもの。バランスを考えて選ぶ。
十二時三十分。赤いランプ。
「放課後のふたりごと、始めます」
一曲目を流す。フリーのピアノ曲。音羽が見つけてきた、雨の日に合う穏やかな旋律。
曲が終わり、お便りコーナーへ。
一通目は軽い内容にした。「部活の顧問に『お前は才能がない。だから努力しろ』って言われた。最初はムカついたけど、今はこの言葉のおかげで頑張れてます」。
「努力しろ、って言ってくれる人がいるのは幸運かもしれません。言わない方が楽ですから」
俺のコメントに、音羽が小さく「はい」と相槌を打った。最近は相槌のタイミングがスムーズになってきた。
二通目。「友達に『あんたといると安心する』って言われた。なんでもない一言だったけど、ずっと覚えてる」。
「安心する、って言われるのはすごいことだと思います。相手のそばにいるだけで、何かを与えているということだから」
横で音羽が「……はい」と言った。いつもより声が小さい。俺は気にしつつも、三通目に進む。
三通目。笑える系統。「母親に『あんたの顔は父さん似ね』って言われた。うちの父ちゃんの顔を鏡で見ろよ、って話」。
俺が読み終わると、音羽がマイクの向こうで、ぷっと息を漏らした。笑いをこらえている。
「……すみません」
「いや、笑うところだと思う。お便りを書いてくれた人も、笑ってほしくて書いてるだろうし」
「……はい」
リスナーにも伝わったかは分からないが、音羽の抑えた笑い声はマイクが拾っていたはずだ。
四通目。ここからは少し重い。
「『あなたは一人じゃないよ、って言われたことがあります。嬉しかったけど、本当に一人じゃないのかは分かりませんでした。でも今は分かります。一人じゃないって、そばにいてくれる人がいるってことじゃなくて、自分の声を聴いてくれる人がいるってことだと思います』」
読み終えて、少し間を取った。
「声を聴いてくれる人がいる、か。……このラジオも、そうだといいなと思います」
横を見た。音羽が相槌を打つタイミングだったが、声が出ていなかった。
膝の上の手が、ぎゅっと握られていた。
五通目に進むべきだったが、直感的に間を空けた。二秒。三秒。
「……はい」
音羽の声がようやく出た。かすれていた。
五通目を読む。「先生に『間違ってもいい。黙ってるより百倍いい』って言われた言葉が忘れられない」。
「間違ってもいい。黙ってるより百倍いい。……なかなか勇気のいる言葉ですね。間違えるのが怖くて黙る方が、楽なことは多いので」
これは俺自身の話でもあった。中学の頃、声を上げて、間違えた。その結果を引きずって、黙ることを選んだ。
「でも」
音羽が口を開いた。台本にない言葉だ。
「……黙っていたら、届かないこともあると、思います」
音羽の声は小さかった。でも震えてはいなかった。一語一語を選んで、丁寧に置いていくような話し方だった。
「届けたい相手がいるなら。間違えても、声にした方が……」
そこで言葉が切れた。音羽は口を閉じて、膝の上の手を見つめた。
放送室に数秒の静寂。
俺は最後の曲を流した。ピアノの旋律がスピーカーから流れ出す。その音に乗せるように、マイクを切った。
赤いランプが消える。
「お疲れ」
「……お疲れ、さまです」
音羽の声がまだ少しかすれていた。
片づけをしながら、俺は四通目のお便りを見返していた。「自分の声を聴いてくれる人がいるってこと」。
このお便りを読んでいるとき、音羽の相槌が止まった。声が出なくなった。あの数秒間、音羽の中で何が起きていたのか。
想像はできる。音羽にとって「声」は特別な意味を持つ言葉だ。中学時代、声が出なくなった経験を持つ彼女にとって、「声を聴いてくれる人」というフレーズは、ただのお便りの一文ではなかったはずだ。
それから五通目。音羽が台本にない言葉を発した。「届けたい相手がいるなら。間違えても、声にした方が」。
あの言葉は、お便りに対するコメントの形をしていたが、たぶん違う。音羽自身が、自分自身に向けて言った言葉だ。
あるいは、俺に向けて。
考えすぎだ。でも、考えすぎかどうかを判断する基準が、もう俺の中で狂い始めている。
「音羽」
「……はい」
「今日の放送、良かったと思う」
「……そうですか」
「特に五通目のコメント。あれは音羽にしか言えない言葉だった」
音羽がこちらを見た。目がわずかに潤んでいるように見えたが、蛍光灯の光のせいかもしれない。
「……ありがとう、ございます」
「来週もこの調子でいこう」
「……はい」
帰り支度をして、放送室を出る。今日は雨が上がっていた。廊下の窓から、夕日が差し込んでいる。久しぶりに見る橙色の光だった。
音羽と並んで廊下を歩く。下駄箱まで。無言。でも、気まずい無言ではなかった。放送後の余韻を共有しているような、そういう沈黙。
下駄箱で靴を履き替える。
「じゃあ、また」
「はい。また明日」
校門を出て、今日は別々の方向に歩き出す前に、音羽が足を止めた。
「真白くん」
「ん」
「今日のお便りの五通目。『間違ってもいい、黙ってるより百倍いい』」
「ああ」
「あの言葉を読んでるとき、真白くんの声も、少し変わっていました」
心臓が一拍だけ、強く打った。
「……そうか」
「はい。何か、思い出すことがあったんじゃないですか」
音羽の目は、問い詰めるものではなかった。ただ、知っている、と伝えるような目だった。声を聴いていれば分かる。あなたの声は正直です。言葉で隠しても、声が答えを言ってしまう。
この前、俺が音羽に言ったことと同じだ。
「……いつか、話す。たぶん」
「急がなくても大丈夫です」
音羽の声が柔らかかった。安心のトーン。
「考え事って、答えが出るまでが楽しいこともありますから」
以前にも音羽がそう言ったことを、俺は覚えていた。同じ言葉が、違う重さで胸に落ちてくる。
「……ああ。そうだな」
校門を出て、別々の方角に歩き出す。
振り返らなかった。今日は、振り返らなくても大丈夫だった。
音羽の声が、まだ耳の奥に残っている。「届けたい相手がいるなら。間違えても、声にした方が」。
忘れられない言葉が、また一つ増えた。
言葉は声に乗る。声は感情を乗せる。だから「忘れられない言葉」には、必ず「忘れられない声」がセットになっている。




