ここでだけは
外の世界がどうであっても、放送室のドアを開ければ元に戻れる。それが安心なのか、甘えなのか。
梅雨が本格化した。毎日のように雨が降り、校舎の中は湿気と上履きのゴムの匂いで満ちている。
教室での俺と音羽は、相変わらず他人だった。
席が離れている。共通の友人がいない。廊下ですれ違っても、会釈ひとつで通り過ぎる。音羽が教室で誰かと話しているのを見たことがない。俺も、音羽の話題を教室で出したことがない。
ただし瀬戸だけは別だった。
「真白、今週のラジオも良かったぞ。テーマの『梅雨の過ごし方』、お便り多かったんじゃないか」
「まあまあだな」
「音羽さんの相槌、ちょっと増えてきたよな。前より声出してる」
「……そうか」
「あと、お前がお便り読むときの間の取り方、うまくなってない? なんか聴きやすくなった」
瀬戸の観察力が地味に高い。放送を毎週聴いている人間ならではの感想だ。
「別に意識してないけど」
「無意識でうまくなるのが才能ってやつだよ」
大げさだ。だが、素直に受け取っておく。
放課後。放送室。
ドアを開けた瞬間、音羽がこちらを見上げた。文庫本を閉じて、テーブルの上に置く。
「真白くん。見てください」
珍しく、音羽の方から話しかけてきた。声のトーンがわずかに高い。嬉しいとき、あるいは何かを早く伝えたいとき。
「どうした」
「お便りです。今日だけで九通」
「九通?」
テーブルの上に便箋が広がっている。確かに多い。先週のテーマ回への反応だろう。
「それと、桐谷先生から伝言があって」
「先生から?」
「他の先生にも放送を聴いている方がいるそうです。『生徒の声が聴けていい取り組みだ』と」
先生にまで聴かれていたのか。少し気恥ずかしい。
「……そうか」
「はい。それで、先生が」
音羽が一瞬だけ言葉を切った。何かを確認するように俺の目を見て、それから続けた。
「月一回じゃなく、正式に週一で放送枠を使っていいって」
「……マジか」
「マジです」
音羽が真顔で「マジです」と言ったのが不意打ちで、思わず笑いそうになった。音羽の語彙に「マジ」があることに軽い衝撃を受けている。
「つまり、ノルマじゃなくて正式な定期放送になったってことか」
「はい。毎週木曜、昼休みの十五分間」
月一のノルマ。それが週一の定期放送に格上げされた。放送部としての活動が正式に認められた形だ。
嬉しい、と思った。
そしてすぐに、その感情の出どころを分析しようとする自分がいた。ラジオの反響が嬉しいのか。放送部が認められて嬉しいのか。それとも――
「真白くん」
「ん」
「嬉しそうですね」
「……そうか?」
「はい。声が、いつもよりちょっとだけ高いです」
心臓が跳ねた。
俺が音羽の声のトーンを分析していたように、音羽も俺の声を聴いていた。しかも「嬉しいとき声が高くなる」という法則を読み取っている。
「……人の声のトーンに敏感なんだな」
「昔から。声を聴いていると、なんとなく分かるんです。その人が今、どんな気持ちなのか」
「……俺もか」
「真白くんは分かりやすい方です」
「分かりやすい」
「声が正直です。言葉で隠しても、声が答えを言ってしまう」
それは俺が音羽に対して思っていたことと全く同じだった。声は嘘をつけない。感情を隠すことはできても、偽ることはできない。
鏡を見ているような気分だった。
「……お互い様だな」
「え」
「音羽も、分かりやすい。嬉しいとき声が高くなるし、安心してるとき柔らかくなるし、蓋をしてるとき平坦になる」
言ってしまってから、しまったと思った。
音羽が目を見開いた。
「……全部、気づいてたんですか」
「……その。すまない。不気味だよな」
「いえ」
音羽が首を振った。
「不気味じゃ、ないです。ただ」
「ただ?」
「……誰かに声を、そこまで聴いてもらったのは、初めてなので」
音羽の声が震えた。泣きそうだとか、そういう震え方ではなく、感情が声の制御を一瞬だけ超えてしまった、という感じの震えだった。
俺は何も言えなかった。
放送室の静寂が、いつもより深く感じられた。窓の外では雨が降っている。その音すら遠い。ここは防音の部屋だ。外の音は入ってこない。代わりに、中の声はどこにも出ていかない。
この部屋の中で交わした言葉は、この部屋の中にだけ残る。
だから言えたのかもしれない。俺が音羽の声を読み取っていたこと。音羽が俺の声を聴いていたこと。教室では絶対に出てこない言葉だ。
「……ここでだけは、ですね」
音羽がぽつりと言った。
「ここでだけは、正直でいられます。声が」
俺は頷いた。言葉にする代わりに。
この場所は、俺たちにとって安全地帯だ。防音の壁が外の世界を遮断して、中にいる二人だけの声を守っている。
教室では他人。廊下ではすれ違うだけ。でも放送室のドアを開ければ、声のトーンで感情を読み合える距離に戻れる。
それは甘えなのかもしれない。放送室という殻に閉じこもっているだけだと言われたら、否定はできない。
でも今は、それでいい。
「来週の放送、何のテーマにしようか」
「考えてきました」
「また用意周到だな」
「……真白くんに褒められると、調子に乗ります」
「褒めてない。事実を言っただけだ」
「それを褒めると言うんだと思います」
音羽の声に、小さな笑みが混じっていた。声だけで分かる。顔は文庫本に隠れていて見えなかったけれど。
俺も自分の本に目を落とした。口元が緩んでいるのを隠すために。
……何をやっているんだ。
放送室のドアの向こうは、いつも通りの雨の校舎だ。廊下の喧騒。教室の五メートル。何も変わっていない。
でもこの部屋の中だけは。
紙をめくる音が、二つ。秒針の音。雨の遠い音。
それだけの空間が、なぜか世界で一番居心地がいいと感じている自分がいて。その理由を考えるのは、もう少し先でいいと、今日も自分に言い聞かせた。
声を聴く。声に聴かれる。それが同時に起きているとき、沈黙でさえ会話になる。




