【037】アーロン将軍、殿軍を決意す
王都は、なおも戦のただ中にあった。
玉座の間では、絶え間なく運び込まれる報告が、刻一刻と戦況の変化を告げていた。
暴徒鎮圧の進捗や、西門での激戦の様子が次々と伝えられる。
事態の全貌が明らかになるにつれ、
アーロン将軍、ローガン侯爵、そして他の将軍たちの表情も、次第に落ち着きを取り戻していった。
夜明け前から続く軍議は、まだ昼にも至っていなかった。
そのとき、将軍の一人が口を開いた。
「何より、わが軍からの報告が正確に届いているのは喜ばしいことです。
こちらで全体の状況を把握できている証です。
混戦ではありますが、対応はできているように見えますし、手元にはまだ七千の予備兵も控えています。
このままの推移であれば、本日中にルーク王子の軍勢を王都から押し出せるでしょう。
その後は追撃に移り、増援を投入して一気に決着をつけるべきです」
ローガン侯爵と他の将軍たちも、提案にうなずいた。
しかし、アーロン将軍だけは頷かず、低く静かな声で言った。
「果たして、本当にこれがすべてなのか。
オリバー大公の死、王都内での暴動、ルーク王子の入城。
これほどの準備をもってして、午前中のうちにすべてが収束するとは、にわかには信じがたい。
こちらにはまだ予備兵力が残されており、王都で放火などの大規模な混乱も起きていない。
今が機か、全兵力を投入すれば勝負は決まるのか。
いや、まるで蜘蛛の巣に絡め取られたような感覚が拭えん」
そのときだった。
予備兵力の投入を決断しかけた矢先、伝令が顔色を変えて駆け込んできた。
「さらに、北門、南門からもそれぞれ三千の旧ルトニア兵が侵入。先ほどの暴動により各門の守りが手薄となり、いずれも突破されました。旧ルトニア兵は怒涛の勢いで城内へ雪崩れ込み、現在、王宮を目指して進軍しています」
伝令の報告を聞き終え、アーロンは目を見開いた。
「やってくれたな、ルトニア王国軍。そうか、そういう手があったか」
手をこまねいていたわけではない。
北門と南門を守る兵たちは、この非常時にあっても持ち場を離れず、油断もしていなかった。
だが、敵は王都内の混乱を見逃さなかった。
暴動によって警備が手薄になった門を突き、そこから怒涛のように侵入してきた。
王都そのものを戦術に組み込んだ、見事な手だった。
この場にいる誰一人として、その手を読めなかった。
それが敗因のすべてだった。
今、北門と南門にそれぞれ三千を送れば、予備兵力として残るのはわずか一千。
しかも敵には、まだ隠された兵力があるかもしれない。
ならば、こちらも総力を挙げて応じるしかない。
だがそうなれば、この王都内での戦いの結末は見えている。
サイサリス公国軍の敗北である。
では、王宮に籠もって迎え撃つべきか?
今はまだ、各部隊からの報告も届き、命令も伝わっている。
だが、一度乱戦に突入すれば、その秩序はあっという間に崩壊するだろう。
アーロン将軍は一瞬だけ考え、すぐに否と断じた。
敵は王宮の構造に通じている。
そもそも、ルーク王子を幽閉していた部屋に隠し通路があったという過ちを犯した。
その事実が示すのは、もはやこの建物のどこから敵が現れても不思議ではないという現実だ。
加えて、籠城戦は援軍の到来を前提とした戦術である。
だが、現在の彼らには外との連絡手段すらない。
ビアトリクスとも、ダレルとも、いまだ音信が途絶えたままだ。
では、いっそ全軍を率いて討って出るか?
それは可能だ。だが、勝てない。
兵の数では、いまだサイサリス公国軍が上回っている。
だが相手は王都という地の利に加え、住民の支持すら味方につけている。
裏路地、地下道、王宮に通じる抜け道、すべてが敵の武器となり、こちらの足を引っ張る。
これでは、どう動いても勝ち目はない。
それは、この場にいる誰もが理解していた。
そして、この報告が届いた時点で、軍議に割く余裕はすでになくなっていた。
戦火は、すでに自分たちの足元にまで及んでいたのだ。
「殿は私が引き受ける」
アーロン将軍の声は静かだった。
だが、その響きには誰にも異を唱えさせない気迫が宿っていた。
「東門には、まだルトニア王国軍の動きはない。
脱出できるうちに、全軍をサイサリス公国へ撤退させる。
西門の部隊が退却できるよう、皆は時間を稼いでくれ。
ローガン侯爵、おぬしは騎兵隊二百を含む、三千の兵を率い、オリバー大公のご遺体とともに、一足先にチェド城を目指せ。
軍の再編はチェド城で行うのだ」
そう言い残すと、将軍たちはそれぞれの役割を果たすべく、静かに部屋を後にした。
やがて、広間にはアーロン将軍とローガン侯爵の二人だけが残った。
アーロン将軍は水差しから一杯の水を注ぎ、一口だけ含んだ。
そして、ぽつりと呟く。
「やられたな」
その一言が、すべてを物語っていた。
将軍たちは勇ましく部屋を出て行った。
確かに、彼らは善戦するだろう。
だが、勝つことはできない。
今や自分たちは王都のど真ん中で、敵に包囲されているも同然だった。
右を見ても、左を見ても、敵ばかりだ。
どの建物から敵が現れてもおかしくはない。
一瞬たりとも気を抜くことはできなかった。
これほど苦しい戦は、他にない。
「せめて、オリバー大公が生きていてくれたなら」
そう思ったところで、もはやどうにもならないことだった。
「ビアトリクス様が戻られるまで、王宮を維持できれば良かったのですが、この状況ではとても無理でしょう。
将軍たちが時間を稼いでくれています。
今のうちに、サイサリス公国へ撤退しましょう」
ローガン侯爵がそう進言すると、アーロン将軍は静かに頷き、口を開いた。
「それしか残された道はなさそうだな。
ローガン侯爵、我らの国、サイサリス公国に戻り、オリバー大公の盛大な葬儀を執り行ってほしい。
そして、ビアトリクス様の即位式も同時に挙行してくれ。
おそらく、私はその場には立ち会えないだろうがね」
ローガン侯爵は、その言葉に込められた覚悟を感じ取った。
アーロン将軍はこの戦で命を捨てる決意を固めている。
味方の撤退を見届けたのち、最後まで戦い抜き、あるいは王宮と運命を共にするつもりなのだろう。
アーロン将軍がビアトリクス様にとって必要不可欠な存在であることは、疑いようがなかった。
しかし、その思いとは裏腹に、アーロン将軍は静かに口を開いた。
「ローガン侯爵、何か言いたげなようだな。私は、オリバー大公とともに非常に楽しい時を過ごさせていただいた。
それは、自分がこの世に生まれたことを心から喜べる、かけがえのない時間だった。
そして、ビアトリクス様がお生まれになったその瞬間も、今なお鮮やかに脳裏に焼き付いている。
決して色褪せることはない。
ビアトリクス様が即位なさる瞬間を、この目で見届けられないのは誠に残念だ。
だが、あの一代の英雄、オリバー大公が、たった一人で逝かれるのはあまりにも寂しかろう。
せめて、私一人くらいは共に行かせていただきたいと思っている。
それに、私はサイサリス公国のこれまでの時代を、十分に味わわせてもらった。
これからの時代は、若き者たちが築き、そして楽しむべきものだろう」
ローガン侯爵は、もはや引き留める言葉を持たないことを悟った。
いや、初めから引き留めることなど叶わぬと、心のどこかで分かっていたのだ。
俯いたまま、何も言えなかった。
やがて、大粒の涙が静まり返った室内にぽつりと落ち、机を打つような音を立てた。
その音に、ローガン侯爵自身が驚いた。
だが、それでも涙は止まらない。
悲しみと悔しさが入り混じり、胸の奥からこみ上げてくる。
言葉にならぬ思いが、喉を塞いでいた。
電撃的な作戦でルトニア王都を制圧したサイサリス公国軍であったが、およそ二か月後、王都内での反乱勃発とオリバー大公の急逝を機に、撤退が決定された。
残されたアーロン将軍は、退却路の確保を目的として正規兵千の兵を率い、王都東門に布陣。
全軍の殿を務める覚悟を固めたのである。




