【038】ルーク王子、揺るがぬ決意
時は、王都決戦の前日に遡る。
ルトニア王都でオリバー大公が暗殺された直後のことだった。
サイサリス公国の女兵士ハンナは、夜半、幽閉されていたルーク王子の部屋に入った。
すでに日が暮れて数刻が経ち、多くの兵が休んでいる頃合いだった。
仮に誰かに見られても、ルーク王子の世話役である彼女なら、訪れた理由を取り繕うことができた。
部屋に入ったハンナは跪き、声を落として告げた。
「先ほど、オリバー大公が亡くなりました」
「わかった。確認は済んでいるのだな」
「はい。直接部屋に入り、確認いたしました」
ルークは一瞬、ハンナが大公の寝室にまで入れたことを訝しんだ。
だが、近頃はサイサリス軍の規律が緩んでいると聞いていたことを思い出し、納得した。
部屋では、隠し通路を通って先に訪れていたラルフ子爵も待っていた。
ルークは小さく頷き、二人に平然とした口調で声をかけた。
「それでは、我々も出発しよう」
ルークとラルフ子爵は、あらかじめ用意されていたサイサリス公国軍の兵士の装いに着替えると、ハンナとともに床下の隠し通路へ足を踏み入れた。
灯火ひとつを頼りに進んでいたが、その明かりは通路の先まで届かず、三人は闇の奥へ呑み込まれていくようだった。
やがて、ルークが声を潜めて尋ねた。
「ラルフ子爵、この通路をいつも通っていたのか」
「はい。
この二か月、毎回ここを通って伺っておりました。
やはり驚かれましたか」
通路は大人が余裕をもって歩ける幅と高さを備え、三百年前に築かれたとは思えぬ堅牢さだった。
「そなたの先祖の手になるものか」
「はい。
初代は建築家として王国に仕え、この通路を設計したと伝わっています。
区画ごとに職人を分けて工事したため、全体像を知る者はいなかったと聞いております。
今も世に知られぬ通路が多く残っているはずです」
「なるほど。私もこの王宮で育ったが知らなかった。
口伝なら、多くは失われただろうに。
通路を造った者も、まさかこの日が来るとは思わなかったに違いない」
「はい。
祖父からは、できることならこの通路を使う日など来ないほうが、この国にとって何より幸せなのだと聞かされていました」
「ハンナのこともそうだが、この隠し通路も含めて、自分の国ながら奥が深い。
必要なときには、必要なものがまだまだ眠っているのかもしれんな」
ラルフ子爵とハンナが、小さく頷く気配がした。
灯火の届かない暗がりで互いの表情は見えなかったが、二人の思いはルークにも十分伝わった。
歩きながら、ラルフ子爵はルーク王子とハンナの会話から、二人が男女の関係ではないことを悟った。
真面目な方なのだろう。
ハンナの境遇を考えれば、親しい仲になっていてもおかしくはない。
それでも一線を越えなかったのは、ルーク王子の生真面目さゆえかもしれない。
「英雄色を好む」という言葉はあるが、ルーク王子にはその気配がまったくなかった。
もちろん、ラルフも好色な主君を望んでいたわけではない。
だが、三年前に正妃を亡くして以来、異性に関心を示すことも、再婚を望むこともなかった。
だからこそ、今回のフランク王国の姫との婚約も、迷わず受け入れたのだろう。
自らの望みより、王族としての責務を優先する方なのかもしれない。
「ルーク王子、このような機会ですので、お尋ねしてもよろしいでしょうか。
今回の件について、後悔されていないのですか」
そのルーク王子は二か月前、すでに死を覚悟されていた。
それを我々が押しとどめ、生き延びる道を選んでいただいた。
あの時も同じ質問をしたが、その答えを改めて確かめたかった。
父の仇は討った。
無理に王国の再興を目指す必要はないとさえ思えた。
それでもなお、この道を望まれているのか。
ふと、不安が胸に浮かんだ。
「質問の意図がわからんな」
ルーク王子は少し間を置いてから、そう返した。
「申し訳ありません。うまくこちらの気持ちを言葉にできません」
「なるほど、そういうことか」
ルーク王子は歩みを進めながら、やがて口を開いた。
「後悔という言葉は、あまり好きではない。
自分で決めたことを、あとから失敗だったと悔やむのは違うと思う。
そのとき必要だったから、そう判断したのだ。
だから、たとえうまくいかなくても、それは失敗ではない。
そうなるべくしてなった。
それに、私の意志は誰にも縛られない。
それは私だけでなく、ハンナやラルフ子爵も同じだ。
最後に決断し、行動するのは自分自身だ。
たとえ望まぬ結果になっても、自ら選んだ以上、すべての責任は自分にある。
二か月前、サイサリス公国の急襲でルトニア王国が滅んだとき、私は自ら命を絶たなかった。
あれは私自身の意志だ。
そして今も、その意志は変わらない。
私は王都を取り戻し、ルトニア王国を再び立ち上げる」
「そうですね。
今、ルーク王子の言葉を聞いて、自分の意志をあらためて確認できました」
隣で小さくうなずいたのは、ハンナだった。
「私が十五歳のとき、父と二人で改まって話をしたことがあります。
そのときに言われたのです。いずれはルトニア王国のために命を懸けねばならないと。
十五歳という多感な年頃に、周囲の友人たちとは違う景色を見なければならない自分の運命が、つらく、不幸に思えたものでした。
周囲はサイサリス公国の繁栄を素直に喜んでいましたが、私はどうしても心から喜ぶことができなかったのです。
そして十八歳になり、私がサイサリス公国軍へ入隊する際、父は、これからはサイサリス公国のために働くことを第一に考えなさいと言いました。
一見すると、十五歳のときに聞かされた言葉と矛盾しているようにも思えました。
しかし、父自身にはルトニア王国のために働く機会がなかったのです。
あるかないかもわからない機会に心を悩ませるより、目の前の現実を楽しみ、充実した日々を送りなさい。
そして、もしその時が来たなら、自分の分まで力を尽くしてほしい。父はそう言いました。
父は結局、サイサリス公国で寿命を全うし、ルトニアのために尽くすことはありませんでした。
それでも自分の人生は充実していたと、笑って語ってくれました。
今、私の胸の中には、父の想いが確かにあります。
そして私は、自分の意志で、ルトニア王国を再興する計画に加わっています」
普段になく多くを語るハンナに、ラルフ子爵は少し驚いた。
彼女がこれほど自分の身の上を語るのを聞くのは、初めてだった。
知らずとも困ることはなかったのかもしれない。
しかし、こうして言葉にされたことで、互いへの理解が深まったようにラルフには思えた。
きっとルークの言葉が、彼女の胸のつかえを取り払ったのだろう。
暗がりで表情まではっきり見えなかったが、ハンナの頬には微かな笑みが浮かんでいるように思えた。
ハンナの想いを受け止め、ルークは言葉を返した。
「この件が落ち着いたら、母上に手紙を出すといい。
ハンナとその家族には、私からも礼を尽くすつもりだ」
「ありがとうございます」
その声には、この逃避行の最中にも家族を気にかけてくれたルークへの深い感謝がにじんでいた。
「まもなく出口です」
ラルフ子爵が言うと、三人の空気が引き締まった。
たとえ王都の外れとはいえ、サイサリス公国の兵が見回っている場所だった。
少しの油断が命取りになりかねなかった。
王都内の地理に詳しいラルフ子爵が先導し、三人は無事に城門まで到達した。
そこから先はハンナの役目だった。
兵士の装いをしたルーク王子とラルフ子爵を従え、ハンナは城門を守る兵士に、城外の巡回へ向かうと告げた。
門を守る兵士は疑う様子もなく、三人を外へ通した。
「規律が緩んでいるという話は、本当だったな」
ルークが小声でそう言うと、ハンナは肩をすくめて、冗談めかして返した。
「元サイサリス公国の軍人としては、嘆かわしい限りです」
三人は準備していた馬に跨り、リアム侯との合流地点を目指して駆け出した。




