【032】ビアトリクス公女、エデッサへ出陣
ビアトリクスは、ルトニア王国北部エデッサへの出陣準備に取りかかっていた。
エデッサ地域までは三百キロ。
即日討伐に成功したとしても、往復には最短でも二十日以上を要する計算だった。
顔には、苛立ちを隠すことなく陰りが浮かんでいる。
エデッサの謀反は、二百名程度の小規模と報告を受けていた。
だが、ふたを開けてみれば、旧王族を中心とした四千名規模の謀反軍が形成されていた。
しかも、エデッサは商都ハンザの南に位置しており、放置するわけにはいかない。
たとえ現在、商都ハンザとサイサリス公国が良好な関係にあるとしても、それは絶対的な信頼に基づくものではない。
ハンザの近隣でなければ、これほど慌てることはなかっただろう。
しかし、謀反軍がハンザと手を結べば、資金も食料も潤沢になり、長期戦は避けられなくなる。
せっかく旧ルトニア王国の統治が順調に進んでいるこの段階で、長期戦は何としても避けたい。
そのため、早期鎮圧が絶対条件であった。
オリバー大公から与えられた兵力は正規兵三千、徴募兵三千、徴収兵四千の合計一万。
正規兵と徴募兵の数が多く、四千という相手に対して、過剰戦力とも思われたが、早急な鎮圧が求められる状況であり、それだけの兵力が割り当てられたのだった。
ただでさえ、エデッサ地域へ千を送り、二週間前には傭兵団五千が王都を去ったばかりである。
そこへさらに一万を割かなければならない。
当初三万を数えたサイサリス公国軍も、いまや正規兵四千、徴募兵三千五百、徴収兵五千五百。
残る兵は合計一万三千にすぎない。
決して少ない数ではないが、十分と断じるには心許なく、不安が募った。
とはいえ、旧ルトニア王国内において、ほかに謀反の兆候が見られないのは幸いであった。
「準備の整った部隊から順次、出立せよ!」
副官エイベルの声が、広場に響き渡った。
三十代の男で、際立った才覚こそないものの、任務には極めて忠実だった。
与えられた仕事は必ず果たす、信頼に足る副官である。
「エイベル、助かる。
今回は時間との勝負になるだろう。
北部エデッサの謀反軍は速やかに鎮圧し、サイサリス公国の威光を示さねばならない。
それが今後、この旧ルトニア王国を治める上での礎となるはずだ」
「ビアトリクス様、ご安心ください。今回は遠征軍の主力をお連れします。
迅速に鎮圧し、オリバー大公のご心労を晴らしてみせましょう」
「そうだな。
父上がどのように判断されるかは分からないが、こちらにはルーク王子という人質がいる。
鎮圧に手間取るようであれば、処刑も選択肢として考えておかねばなるまい」
「そうならないよう、我々で必ずや成し遂げましょう」
鎮圧軍一万は、準備の整った部隊から順次、王都を発っていった。
遠征軍の主力だけあって、その動きは素早く、秩序ある進軍が印象的だった。
ビアトリクスは城門の高みからその様子を見下ろしていた。
その背に、静かな決意と重責がのしかかる。
一方その頃、旧ルトニア王国の王宮内の執務室では、オリバー大公とローガン侯爵が向かい合っていた。
ローガン侯爵の額には玉の汗が浮かび、対するオリバー大公の視線には、苛立ちが隠されていなかった。
「ローガン。
エデッサの謀反は、早期に鎮圧できるはずではなかったのか。
そのような報告があったからこそ、旧ルトニア王国王都の治安を優先し、傭兵団を本国に戻したのだぞ」
その声には怒気が込められていた。
オリバー大公をよく知るローガン侯爵でなければ、その圧に気圧され、言葉を発することもできなかっただろう。
「オリバー大公、申し訳ありません」
ローガン侯爵には、もはや謝罪する他なかった。
現地からは、二百名規模の謀反との報告を受けていた。
そのため、一千名程度の兵で十分に鎮圧できると判断した。
しかし今になって、「報告がそうだったから」と釈明しても意味はない。
しかも、その報告を上げてきたのはローガン自身の部下である。
彼は報告者をよく知っていた。
だからこそ、その情報を信じ、対応を決定した。
しかし、情報そのものが誤っていた。
今さら誤りを訂正する時間はない。
今はただ、迅速に対応するのみであった。
この謀反が鎮圧されたのち、改めて調査を行い、エデッサで何が起こっていたのかを明らかにする必要がある。
オリバー大公は机を強く叩いた。
鈍い音が執務室に響きわたる。
「ローガン侯爵。
私はおぬしに謝罪を求めているわけではない。
問題は、エデッサでの失策をどう取り返すつもりか」
オリバー大公の目には、苛立ちがこもっていた。
その視線を受け、ローガン侯爵は身を強張らせる。
「すぐに旧ルトニア王国全域を、改めて徹底的に調査しなおせ。
コンラッド侯爵も南部のベネット侯爵と対峙している、その後の戦況についてもだ。
もちろん、フランク王国と対峙中のリアム侯爵の動きについても同様だ」
オリバー大公は自らの考えをまとめるかの様に机を軽く叩き、言葉を続ける。
「それと、ダレル団長率いる傭兵団に伝令を出せ。
まだ帰国の途上にあるはずだ。
至急、進軍を止めて王都へ戻るよう指示を出しておけ」
彼は窓の外を一瞥し、低く言った。
「エデッサの謀反は何かがおかしい。
旧臣たちが動き出している可能性もある。
不測の事態に備え、傭兵団は手元に置いておきたいのだ」
「かしこまりました」
ローガン侯爵は執務室を出ると、足早に廊下を進んだ。
一度は帰還命令を出した傭兵団を、再び呼び戻す。
それほどの危機が訪れていると、オリバー大公が感じている。
その事実が、ローガン侯爵自身にも強い危機感を抱かせた。
統治は順調に進んでいると思っていた。
だが、それは思い込みだったのか。
それとも、状況が急速に変わりつつあるのか。
いずれにせよ、オリバー大公の反応は明らかだった。
何かが起きている。
いや、すでに始まっているのかもしれない。
ローガン侯爵は伝令を呼び、傭兵団に王都への帰還を命じた。
同時に、旧ルトニア王国全域を再調査するための計画書に取りかかる。




