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【002】ゼイン・アグリウス登場

ビアトリクスはモーゼルをまっすぐに睨みつけた。

捕らわれてからすでに一か月、公都に移されてまだ一週間ほど。


モーゼルは、丁寧に一礼して応じた。


「これは申し訳ございません。

私の言葉が足りず、不快な思いをさせてしまったようです。

私の勝手な思いに過ぎませんが、できることならば、あなたのお力になりたいとも思っております」


その声に押しつけがましさはなく、ただ誠意だけがあった。

商人としてではなく、一人の人間として彼女を案じていることが、言葉の端々から伝わってくる。


モーゼルは、反発すら受け入れるような穏やかな表情を浮かべていた。

その姿に、ビアトリクスの胸はわずかに突き動かされた。


語調を崩さぬまま、モーゼルは穏やかに言葉を続けた。


「ですから、老婆心ながら、あなたのお言葉について意見を差し上げました。

決して、ビアトリクス様が悪いなどと言うつもりはございません。

ただ、あまりに率直すぎる物言いが、時として望まぬ方向へと物事を導いてしまうのではないかと。

そう案じたのです」


言葉を濁すことなく語るモーゼルの声音には、どこまでも穏やかな調子が保たれていた。

だが、その内側にある意図は決して単純なものではない。

それを感じ取ったビアトリクスは、ほんのわずかに目を細めた。


「望まぬ方向とは。あなたが言うそれは、いったい何を指しているのですか」


「アンドラ公国へ嫁ぐことになる。ということです。

ビアトリクス様は、与えられた境遇に甘んじず、現状にも満足されていない。

そして、アンドラ公国から与えられた物すらお受け取りにならない。


そのお姿を見て、アンドラ側はどう思うでしょうか。

懐柔は不可能と判断し、いずれ強硬策に出る。

そうなる可能性は、容易に想像できることではありませんか」


モーゼルの言葉に、ビアトリクスは息をのんだ。

その指摘が、あまりにも的を射ていたからだ。


思い返せば、自分はただ現状を拒みたいという感情にとらわれていた。

周囲の思惑も、次に起こるであろう展開も見ようとしなかった。

何も見えていなかったのだ。


だが、それでも素直に頭を下げる気にはなれなかった。

モーゼルの言うことが正しかろうと、口調や物言いにもう少し配慮があってもよいはずだ。

そう思わずにはいられなかったからである。


そんなビアトリクスの心中を見透かすように、モーゼルは彼女の返答を待たず、淡々と話を続けた。


「ところで商都ハンザの女性と、先日お会いになりましたね」


モーゼルが、ふと話題を変えた。

表情は変わらぬまま、落ち着いた口調で続ける。


「彼女とは、浅からぬ縁がございまして。彼女を過度に信用されぬことです」


口調は穏やかなままだったが、その内には確かな警告の色が含まれていた。


「彼女の行動原理は、すべてある一点に収束いたします。


商都ハンザの利益。


それこそが、彼女にとっての最優先事項です。

貴女の考えや行動が、それに資すると判断されれば、心強い味方となるでしょう。

しかし、そうでない場合には、相応の距離と態度で臨まれる覚悟も必要です」


そこまで聞いたところで、ビアトリクスはやや身を乗り出し、明確な敵意を込めて言葉を返した。


「つまり、アンドラ公国の商人であるあなたが、商都ハンザの女性を貶めている。

そういうことですね?


立場上、いずれ利害が衝突するかもしれない存在ですから。

なるほど、そう考えれば納得はできます。


ですが、そのような方を私に信用せよとおっしゃるのは、いささか無理のある話ではありませんか?」


その視線は、明らかに軽蔑の色を帯びていた。

だが、モーゼルはそれに眉ひとつ動かすことなく、あくまで穏やかに返した。


「おっしゃる通りです。表面的に見れば、私はアンドラ公国の商人であり、

そして一方は、商都ハンザという別勢力を背負う者。

互いに利益を追う立場であることは否定いたしません」


「しかし、果たして私は本当にアンドラ公国の商人なのでしょうか?」


「確かに、シュール大公とは懇意にしておりますし、サイラス商会もまた、取引の多くをアンドラ公国に依存しています。

表向きには、私がアンドラの商人と見なされるのは、致し方ないことでしょう」


そこまで言って、モーゼルはゆっくりと言葉を切り、背後に控える若者へと視線を向けた。


「ですが、私はアンドラ公国のために尽くすつもりは毛頭ございません。

サイラス商会という器も、ただの手段に過ぎません。

私が尽くすのは、この若者ただ一人。私のすべては、彼のためにあるのです」


大柄なその男は、たしかに商人には見えなかった。


この若者のために、モーゼルも、あの商会も存在しているというのか。


そう思いながら、ビアトリクスは男の顔に目を向けた。

瞳の奥に宿る鋭さ。それは戦場に立つ者の眼光だった。

老将キール将軍を思わせるような、老練な兵だけが持つ鋭い眼光である。


年齢も、体格も違う。

ただ、目だけが似ていた。

それでも、確かに同じものを感じた。

そして、それに気づいた自分自身に戸惑いを覚えた。


さらによく見れば、顔立ちも整っていた。

そこには、若さと静かな迫力が同居している。

粗野な印象はない。

むしろ、武骨さのなかに、静かな気品すら漂わせていた。


「彼が、あなたのすべてとおっしゃる、その若者ですか」


無意識に発せられた問いに、モーゼルは笑みを浮かべて頷いた。


「ええ、そうです。

私はこの者に未来を託しました。

ですから、アンドラ公国の命でも、サイラス商会の利益でもなく、彼の意志こそが、私の行動を決めるものなのです」


まるで何の矛盾もない口ぶりだった。

だが、その誠実すぎる誠実さが、かえって異様に映る。


「サイラス商会としては、アンドラ公国との関係も浅からぬものと聞いておりますが?」


「その通りです。公国との取引は、それなりの規模を誇ります。

しかし、所詮は一つの取引先に過ぎません。商会が依って立つ土台は、他にも数多ございます。

いざというとき、どこへでも身を転じられる。それが我々の強みです」


その口調はあくまで穏やかだったが、言外には「アンドラ公国への忠誠など必要としていない」と告げていた。

厚遇を受けながら、すでに退路まで視野に入れている商人だった。


この男は、完全にこの若者に賭けている。


そう理解したとき、ビアトリクスの胸に、得体の知れぬ焦りと、不思議な安心感が同時に湧いた。


何者だろう。


その時、若い商人が口を開いた。



「俺がゼインだ」

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