【001】ビアトリクス公女と商人モーゼル
大陸統一歴三百十七年、十月。
黒蜘蛛戦争は、サイサリス公国の敗北によって幕を閉じた。
ビアトリクス公女は「保護」の名のもとにアンドラ公国の公都へ捕らわれていた。
彼女に与えられた住まいは、公都の一角にある貴族の邸宅だった。
本来ならば地方領へ赴任しているはずの貴族が所有しており、生活に不自由がないよう、家具も衣服も食事も十分に整えられていた。
だが、それはあくまで、閉ざされた屋敷の中だけで許された自由に過ぎなかった。
公都に移されてから、すでに二週間以上が過ぎていた。
それでも、心は何ひとつ落ち着かないままだった。
そんなある日のこと。
気晴らしになるだろうと、シュール大公は一人の商人を手配した。
アンドラ公国に出入りする商会の者だとされたが、その真意は定かではなかった。
秋の夜気が公都を包む頃、扉が開き、一人の商人が部屋へ足を踏み入れた。
商人は深く頭を下げ、丁寧な口調で挨拶した。
「初めまして。
アンドラ公国にて商いをしております、モーゼル・サルヴァーと申します。
以後、お見知りおきください」
「私がビアトリクス・アンドラです。
よろしくお願いします」
ビアトリクスは、商人モーゼルに丁寧に挨拶を返した。
敵意を示す相手ではないと理解しており、殊更に強く出る必要もなかった。
「サイラス商会が扱う商品は、食料、嗜好品をはじめ、多岐にわたります。
それもこれも、アンドラ公国をはじめとする各国との良好な取引関係の賜物であり、心より感謝しております。
本日は、当商会を代表して私が直接対応させていただきたくこうして伺いました。
また、本日お持ちしていない商品で、ご希望の品がございましたら、明日にでもご用意いたします。遠慮なくお申し付けください。
では、お持ちした品々を順にお見せしながら、説明させていただきます」
モーゼルが連れてきた若者が、無言で箱から商品を取り出していった。
その動作は滑らかで手慣れていたが、ビアトリクスの目を引いたのは、彼の背中だった。
商人とは思えぬほど分厚く、衣服越しにも鍛え上げられた体つきが見て取れた。
尋常ではない。
そう思った瞬間から、彼の所作の一つひとつが気になり、モーゼルの説明が耳に入らなくなっていた。
どれほど見つめていたのだろう。
気づけば、モーゼルに声をかけられていた。
「ビアトリクス様」
「あ、ありがとうございます。
この部屋にあるものの中に、私の気に入る品は一つもありません。
そして、お持ちいただいた商品の中にも、好みに合うものはありません。
申し訳ありませんが、本日お持ちいただいた品は、そのままお持ち帰りください」
「これは、手厳しい。
ビアトリクス様が今お使いの物は、全てシュール大公から与えられたものです。
つまり、ご自身の好みに合った品ではないと拝察しております。
そこで、少しでもお気に召す品をご用意するよう、私どもに命が下ったのです。
にもかかわらず、私がお持ちした品もお好みでないと言われる。
仮にもシュール大公より直々に任された身としては、何ひとつお選びいただけなかったとなれば、私の責任ともなりかねません。
どうかその点をお汲み取りいただき、ほんの少しでも検討していただけないでしょうか」
ビアトリクスは小さく頷いた。
この商人の言うことはもっともだった。
シュール大公の命を受けて訪れているのなら、何か一つでも購入しなければ、彼が無用な叱責を受けるかもしれない。
だが、それでも首を縦には振れなかった。
アンドラ公国から、これ以上の施しを受けるつもりはなかった。
今も十分すぎるほどの厚遇を受けている。
しかし、その厚遇こそが、自分を飼いならそうとする鎖に思えて仕方がなかった。
この感情を軽々しく言葉にすれば、すぐにシュール大公の耳へ届くだろう。
そう考えると、ビアトリクスは口を閉ざすほかなかった。
その様子を見たモーゼルが、薄く笑った。
「なるほど。
我々を信用していない、ということですね」
思わぬ言葉に、ビアトリクスは眉をわずかに動かした。
どういう意味かと問いかけるより早く、モーゼルは柔らかな声で続けた。
「何かを言おうとして、言わない。
考えを抱えたまま、口に出すことを避けているようにお見受けします。
あなたの態度からは、「私は現状に満足していないが、これ以上の施しも望んでいない」と、そう聞こえます。
そのお気持ちは理解できます。
しかし、それは言葉にしなくても、態度や表情から伝わってしまうものです。
まだ十八歳なのですから、隠しきれないのも当然です」
この男は、ただの商人ではない。
そう直感したビアトリクスは、姿勢を正した。
「私が気持ちを隠しきれていないと言われたが、それは、どういう意味か」
「本当にご自身の気持ちを隠したいのであれば、適当な品を何点か選んで、満足しているふりをなさるべきでした。
ですが、あなたはどの商品にも手を伸ばさなかった。
その態度自体が、はっきりとした意思表示になっています。
アンドラ公国から施しを受けたくないという強い感情が、そこに表れているのです」
それは、見事なまでの観察と洞察だった。
モーゼルの指摘は的を射ており、反論の余地がなかった。
「ビアトリクス様が何をお考えであっても、私がそれをシュール大公に報告することはございません。
どうかご安心ください。
私は少なからず、ビアトリクス様のご境遇に同情を覚えているのです。
同情されるのは、不愉快だというお顔をなさっていますね」
あまりに正確に内面を言い当てられ、ビアトリクスはわずかに眉をひそめた。
この初対面の商人に、こうもあっさり心を読まれることが不快でならなかった。
「あなたとは、今日が初対面のはずです。
にもかかわらず、モーゼル殿の言いようは、少々、失礼ではありませんか」
自分の声がわずかに強くなったことに気づき、ビアトリクスはさらに苛立ちを覚えた。
それでも、モーゼルの態度は変わらなかった。
「私は、ビアトリクス様とは親子ほども歳が離れております。
その分、見えるものも違うのでしょう。
無礼な振る舞いをした覚えは、一切ございません。
加えて私は、シュール大公のご命によりこの場を訪れ、商品をお持ちした者です。
にもかかわらず、何ひとつ選ばれず、さらにはアンドラ公国からの施しを受ける気もないとおっしゃる。
どちらが礼を欠いているのか、いま一度、お考えいただければと存じます」
その物言いは、失礼に当たるのではないか。
そう思いながらも、ビアトリクスはあえて言葉を選んだつもりだった。
だが、モーゼルは自らの言葉遣いや態度を微塵も改めようとしなかった。
「お互いに言い分があるようですね。
ですが、モーゼル殿とこれ以上話をしても、平行線をたどるだけでしょう。
私はこれ以上、あなたと会話を続けるつもりはありません。
シュール大公に何を報告なさっても構いません。
どうぞ、お引き取りください」
「ビアトリクス様、それは、あまりにも短慮ではございませんか。
先ほどから申し上げております通り、私はシュール大公にご様子を報告するつもりなどございません。
そして、あなたのご境遇には、少なからず同情しております」
モーゼルの落ち着いた声音に、ビアトリクスの瞳が鋭くなった。
「初対面であるにもかかわらず、私の気持ちを顧みない方と、これ以上お話しする必要はありません。
それが短慮で、私が悪いとおっしゃるのですか」
声は静かだったが、その語尾には確かな怒気が宿っていた。
ビアトリクスが真っすぐにモーゼルを睨みつけると、室内の空気がひときわ張り詰めた。
「少しでも面白い、続きが気になると思ったら、下の**【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】**にしていただけると、ランキングが上がり、より多くの方に届くようになります。応援よろしくお願いします!」




