【024】ルーク王子、捕らわれの始まり
ルークは、玉座の間から王宮内の一室へと移された。
サイサリス公国の兵士は、「今日からこの部屋で暮らしていただきます」
とだけ告げ、さらに一人の女性兵士を紹介した。
そう言って現れたのは、二十代前半とおぼしき女性兵士、ハンナだった。
長い髪は一つに束ねられ、制服の折り目もきちんと整えられている。
所作に洗練された優雅さはないが、不思議と上品な印象を与える立ち居振る舞いで、その姿はむしろ良家の娘を思わせた。
兵士然とした威圧感もなく、どこか誠実で清楚な空気をまとっている。
そして、サイサリスの兵士とは思えぬほど丁寧な挨拶をすると、柔らかい口調で告げた。
「必要なことがあれば、遠慮なくお申しつけください。
部屋を出る以外のご用件でしたら、私の方でご用意いたします」
礼を終えると、ハンナは静かに部屋を後にした。
一人残されたルークは、無言のまま周囲を見渡す。
部屋には、寝台と書き物机、丸い食卓が備え付けられていた。
その上には紅茶の容器と器が並べられていた。
顔の高さに設けられた四つの窓からは柔らかな陽光が差し込んでいる。
何の飾り気もない、殺風景な部屋だが、必要最低限のものは揃っている。
「ここで暮らすというのか」
つぶやく声には、冷ややかな諦めが混じっていた。
そしてルークは、この部屋をよく知っていた。
かつて自分が王宮で使用していた部屋だったのだ。
王宮の奥に位置し、外に出るにはいくつもの部屋を抜けねばならない。
ここが選ばれたのも当然の成り行きだと、彼は小さく苦笑した。
当面は傷を癒す必要があるが、それが癒えたあと、この静かな空間で過ごす日々は退屈に違いない。
「まあ、当然の選択だな」
独り言のように呟いたとき
不意に、床下から誰かが叩くような軽い音が響いた。
驚くことなく、ルークは視線を床に向け、静かに声を発する。
「どうぞ」
部屋の隅の床板がそっと持ち上がり、そこから細身の男が慎重に姿を現した。
「ルーク王子、ご無事で何よりです」
隠し扉から現れた男、ラルフが、床に膝をつきながら静かに声をかけた。
「ラルフ子爵か。確かに傷は負ったが、無事ではあるな。
しかし、あの熊には、まったく辟易させられた」
玉座の間での、オリバー大公との対面が、よほど堪えていたのだろう。
その口から真っ先に出たのがその話題であった。
だが、ルークの声音に動揺の色はない。
隠し通路から突然現れたラルフに対しても、眉ひとつ動かさず、まるでいつものように応じていた。
それは、ルークがすでに「こうなること」を想定していたこと、そして何よりラルフという男への絶対的な信頼の証でもあった。
「おまえの言う通り、殺されることはなかったな」
ルークは、小さく息を吐きながら続けた。
「昨日のあの状況では、そうなるのもやむなしと思っていた。
だが、生き残ってみると、これほどまでに、苦しいものか。
いっそ討ち死にしていた方が、どれほど楽だったかもしれん」
その声音は、苦笑とも諦めともつかない、鈍く沈んだ響きを帯びていた。
だがそれでも、目には光が残っている。
言葉に込められた「悔い」はあっても、「絶望」はなかった。
ラルフは深く頭を下げた。
「ルーク王子が、我らの言葉に耳を傾けてくださったこと。
この命に代えても、感謝申し上げます」
顔を上げると、その瞳は静かな決意を宿していた。
「今しばらくの辛抱です。
これより、ルトニア王国再興の準備を本格的に進めてまいります。
どうか、もう少しだけお待ちください」
「それはわかった。私は捕らわれの身、何をすることもできん。
おまえたちがやりやすいように動いてくれ」
静かに言いながら、ルークは椅子に深く身を預けた。
その言葉には、全幅の信頼と、己の立場を冷静に受け入れる覚悟がにじんでいた。
「ありがとうございます」
ラルフは恭しく一礼した。
しばしの沈黙のあと、ルークは表情を引き締め、問いを投げかけた。
「それで、今回のサイサリス公国の侵攻について、何か掴めたか。
コンラッド侯爵の裏切りによって国境警備隊がまったく機能しなかったのは理解できる。
チェド城も同様だ。
しかし、敵が王都近くまで迫るまで一報も入らなかった。
これは尋常ではないだろう。
さらに、王宮を守る警備兵が、あれほどの大軍に対し、なぜあのように無謀に突出したのか。
そしてもう一つ、なぜコンラッド侯が王都攻めに加わらなかったのか。理由はあるのか?」
その言葉には、怒りよりも、深い疑念と悲哀が込められていた。
ルークは、自国の崩壊が偶然ではなく、構造的な綻びの結果であることを悟りつつあった。
「サイサリス公国の侵攻については」
ラルフは言葉を選びながら、慎重に答える。
「裏で、商都ハンザが関与していた形跡がございます。
確証はまだ得られておりませんが、いくつかの動きが一致しており、ほぼ間違いないかと。
現在も調査中ですが、なにぶん我が国はこの有様です。
調査に割ける人員は限られております。
必要とあれば、そちらに人を回すこともできますが、いかが致しましょうか?」
ラルフの問いに、ルークは低く、乾いた笑みを漏らした。
「やはり、ハンザか。父上がハンザを手に入れようとした、その強欲がこの事態を招いたのだ。
コンラッド侯爵の裏切りは想定外であったが、まさに自業自得というやつだな」
椅子の肘掛けに肘を乗せ、静かに言葉を続ける。
「だが、関与があったとわかれば、今はそれで十分だ。
ハンザの誰が、どのような形で関与したかは、すべてが終わってから、改めて調べることにしよう」
少し考えた後、ルークは視線を上げた。
「それで、コンラッド侯爵が王都攻めに参加しなかった理由は?」
「オリバー大公の意志によるものです。
理由は二つ。
第一に、あまりにもコンラッド侯爵の軍功が大きくなりすぎるのを避けるため。
第二に、南部のベネット侯攻めに備えたためです。
王都からベネット侯領まではおよそ三百キロ。
軍勢にとっては十日以上の長い行軍となります。
補給線の維持も不可欠であり、戦力を温存せざるを得なかったのでしょう」
ラルフの答えに、ルーク王子は小さくうなずいた。
「では最後に、王宮を守っていた警備兵はどうだった?」
その問いは鋭く、感情を抑えた声音の奥に、痛烈な失望が宿っていた。
「失礼いたします。非常に申し上げにくいのですが、
兵の質が、著しく落ちていたとしか言いようがありません」
ラルフは苦渋の表情を浮かべながら、続けた。
「敵を前にしてなお命令を待ち、動かぬ兵も多くいました。
王宮の城門を開け、味方を迎え入れた際、戦わぬことを恥と考えた一部の者たちが突撃し、結果として守りは崩れ、城門は開いたままとなってしまったのです」
それを聞いたルークは、短く息を吐いた。
「確かに、ラルフ子爵の言う通りだ。
味方を引き入れるために門を開いたまでは良い。
だが、そのまま突出するとは、兵の質が落ちた証拠だ」
そして、静かに自嘲めいた笑みを浮かべた。
「我が国は、滅びるべくして滅んだというわけか」
その言葉には、怒りでも悲嘆でもない、どこか諦めにも似た響きがこもっていた。
だが、その声の奥には、なおも燃え残る意志の炎がわずかに揺れていた。
それを聞いたラルフは、かすかに目を伏せながら言葉を継いだ。
「ファルジュ王の下では、これが限界かと思われます」
その言葉が口をついて出た瞬間、ラルフはルークの眼光に射抜かれた。
冷ややかに、しかし明確な怒気を帯びた視線が向けられる。
「言うな、ラルフ子爵」
声は低く抑えられていたが、はっきりとした威圧がそこにあった。
ラルフは我に返り、すぐに頭を垂れた。
「申し訳ありません。出過ぎた言葉でした」
ルークはしばし無言のまま、彼を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「わかればよい。以後、気をつけるように」
その声音には、叱責の奥にある信頼と、悲しみの色がにじんでいた。
父のことを言われて怒ったのではない。誰よりも責任を痛感しているからこそ、他人の口からそれを聞くのが辛かったのだ。
そして、ラルフがそれを理解していることも、ルークはよく知っていた。




