【020】サイサリス公国の急襲
ルークが父王と話す機会は、ついに訪れなかった。
まだ夜が明けきらぬ早朝、衛兵が勢いよく部屋に駆け込んできた。
「ルーク王子、敵襲です。サイサリス公国が攻めてまいりました!」
その声に、ルークは反射的に跳ね起きた。
今、なんと言った?サイサリス公国が、攻めてきただと?
耳に飛び込んだその言葉を頭の中で反復するが、まだ頭がうまく働かない。
衛兵の声には、ただの報告ではない、悲痛な叫びが混じっていた。尋常な事態ではない。
それだけは直感で理解できた。
ここはどこだ?何が起こっている?どうして王宮が襲われるのだ?
だが、混乱の中でも徐々に思考が追いついてくる。
サイサリス公国が、本当に攻め込んできたのだ。
その軍が国境を突破した時、なぜ報せが入らなかったのだ。
国境からこの王都までは、およそ二百八十キロもある。
サイサリス公国と国境を接するコンラッド侯爵は、一体何をしていたのか。
しかも王都の東三十キロには、要のチェド城がある。
その城が陥落するまで誰一人異変に気づかなかったとは、どういうことだ。
防衛線はどうなっていた。王都を守るはずの備えが、これほどまでに脆弱だったというのか。
まさか。十日間でサイサリス公国軍は、国境付近でコンラッド侯爵を破り、チェド城を抜け、そのまま王都へ侵攻してきたのか。
我が国の防衛網が、そこまで無力だったというのか。
今、すぐ近くから聞こえてくるこの喚声、
まさか、すでに王宮内にまで侵入を許しているのではないか?
「鎧を持て。それから状況を報告せよ」
命じる声に応じ、数人の衛兵が素早くルークの鎧を運び、手際よく装着を手伝った。
その間に、ひとりの伝令が跪き、声を張り上げて報告を始めた。
「報告いたします!
昨夜、王都の東に位置するチェド城が、サイサリス公国軍によって突破されました。
敵軍は現在、王都に侵入し王宮に向けて進軍中です。
兵力の詳細は不明ですが、三万を超えるとの報が届いております!」
「三万。それほどの兵力の侵入を許したのか」
ルークは呟くように言い、口元を強く引き結んだ。
「しかも、昨夜突破されて、報告が届いたのが今だというのか」
言葉の端に、怒りと悔しさが滲んでいた。
すでに多くが手遅れかもしれない。その事実を受け止めながらも、ルークは冷静さを失わなかった。
ルークは小さく自嘲を漏らした。
慢心していたのは、父上ではなく、この私だったのかもしれないな。
そう思いながら顔を上げ、問いかけた。
「それで、父上はどうされた?」
「ただいま着替え中でございます。間もなく、いつもの部屋で軍議が開かれるとのこと。
ルーク王子にも、至急お越しいただくよう申し伝えるよう命じられております」
扉を開けてルークが部屋に入ると、すでに王宮に仕える重臣たちのうち、およそ四割ほどが会議用のテーブルに着いていた。
その人数の少なさに、ルークは思わず目を見張った。
「これだけか?他の者はまだ準備ができていないのか。敵はすでに王都に侵入しているのだぞ!」
苛立ちが抑えきれず、ルークは拳でテーブルを叩いた。
重い音が部屋中に響き渡る。
その直後、ファルジュ王が悠然と部屋に入ってきた。
そして、席に着いた者の数を見渡し、眉をひそめた。
「ルーク王子、これはどういうことだ?これほどまでに責任者たちはたるんでいるのか」
「はっ、申し訳ありません」
ルークがすぐに頭を下げる。部屋にいた者たちも全員が起立し、ファルジュ王を迎えた。
ファルジュ王はゆっくりとテーブルの中央へと歩み寄り、当然のように主座に腰を下ろす。
そして、場に緊張が戻ったところで、改めて状況確認が始まった。
ひとりの伝令が進み出て、跪きながら声を張る。
「ご報告いたします。深夜、王都の東に位置するチェド城が、サイサリス公国軍によって陥落しました。
侵攻は極めて迅速で、守備部隊は抵抗する間もなく突破されたとのことです。
現在、敵軍は王都へ侵入し、王宮近辺にまで接近しております!」
報告を聞いたファルジュ王が苛立ちをあらわにした。
「今から攻めますと予告してくる国など、どこにあるというのだ。まったく!」
ファルジュ王は椅子を揺らす勢いで立ち上がり、怒鳴った。
「わしが直々に叱り飛ばしてくれる。チェド城の責任者を、すぐにここへ連れてこい!」
部屋に沈黙が落ちる。テーブルに着いた面々は、王の言葉を聞いてうつむいた。
今さら王都の東に位置する城の責任者を呼んだところで、何の意味もないことを誰もが分かっていた。
その空気を断ち切るように、ルークが言葉を挟む。
「ファルジュ王。叱責は後ほどでよろしいかと存じます。
今はまず、この王宮の守備と援軍の手配が急務です」
声は丁寧ながら、その語気には明らかな焦りと苛立ちがこもっていた。
ルークは苛立ちを必死に抑えつつ、今はそのようなことを口にしている場合ではない。
その思いが言葉の端々に表れるよう、慎重に言葉を選んだ。
だが、その言葉を受けても、ファルジュ王の怒りは収まらなかった。
「与えられた責任を果たせぬとは、何たることだ!
この早朝に我々が対応を迫られているのも、その者が怠ったからに他ならぬ。
伝令を一つ出していれば、事態は変わっていたかもしれぬのだ!」
そう叫びながら、ファルジュ王は顔を真っ赤にし、なおも怒鳴り続けた。
「よいか、至急その責任者を呼べ!直ちに、わしが叱責してくれる!」
「責任者は、すでに、その命で責任を取りました。
サイサリス公国軍によって討ち取られております。
ファルジュ王、今はそのようなことを言っている場合ではありません」
ルークの声は、抑えてはいたが、明らかに焦りを帯びていた。
この一瞬にも、サイサリス公国軍は王宮へと迫ってきている。
こんな不毛なやり取りを続けている時間など、もはやどこにもなかった。
祈るような思いで、ルークは父王の顔を見つめた。
しかし、返ってきたのはあまりにも呑気な言葉だった。
「そうか。それは大義であったな。自らの命で責任を果たすとは、まことに立派な心がけだ」
満足げにうなずく父の姿に、ルークは言葉を失った。
そのとき、遅れていた士官たちが次々と部屋に入り始め、最後にオーウェン丞相が姿を現した。
それを見たファルジュ王の表情が、急に険しくなる。
「オーウェン、何たることだ。丞相たる者が、この私より遅れてくるとはどういうつもりだ。
そなたは、丞相としての自覚に欠けているのではないか?」
周囲に薄ら笑みを浮かべながら、なおも言葉を重ねる。
「この件が終わり次第、進退を考えるべきではないか。
そもそも、そなたの油断が、この一大事を招いたのではないのか?」
ファルジュ王は、そのまま笑みを崩さずに言った。
「ファルジュ王のおっしゃる通りです。
私の油断がこのような事態を招いたこと、誠に申し訳ございません。
この件が収まり次第、今後の進退についても熟慮いたします」
オーウェンはそう言いながら、顔を青ざめさせ、深々と頭を下げた。




