【016】ゼインの草原の記憶
アンドラ公都を発って七日目。
ゼインたちは、およそ二百キロの道のりを進み、アンドラ公国東部のランメル地域に入っていた。
ティモール王朝の王都サボーナまで、残りは百キロを切っている。
その夜、ゼインたちは街道脇で焚き火を囲んでいた。
秋の風が枯れ草を揺らし、舞い上がった火の粉が暗い空へと消えていった。
「明日には、やっとアンドラ公国ともおさらばだな。
道中、危ない目に遭うこともなく、ここまで来られて何よりだ。
残してきたモーゼルのことは少し心配だが、どんな状況でも、きっとうまく立ち回ってくれるだろう」
その言葉からは、ゼインがモーゼルに寄せる揺るぎない信頼が伝わってきた。
それに応じたのは、セミラミスだった。
「モーゼルなら大丈夫よ。
今までもずっとそうだったでしょう?
サイラス商会をここまで大きくした手腕があるなら、アンドラ公国のシュール大公やレギレウス将軍だって敵わないはずよ。
でも、こうして皆で過ごす時間も、悪くないわよね。
ねえ、ビアトリクス?」
名を呼ばれたビアトリクスは、十八歳らしい屈託のない笑顔で応じた。
「なんだか、盗賊団にいるみたいで楽しかったわ」
その一言に、焚き火を囲む一同はどっと笑い声を上げた。
エルヴィスが肩をすくめて言った。
「まあ、今ここで囲んでるのは、実際に元盗賊団の連中だからな。
姫様の言うとおりだ。
にしても、出会った頃とは別人みたいに、ずいぶんと物言いが柔らかくなったじゃないか」
ビアトリクスが返そうとしたそのとき、先に口を挟んだのはセミラミスだった。
エルヴィスをきつく睨みつけながら、少し芝居がかった口調で言った。
「この年頃はね、多感で複雑な時期なの。
男には分からない心の揺れや変化があるのよ。
そんな将来のサイサリス公国の女大公に、無神経なことを言わないでちょうだい」
セミラミスの口ぶりを楽しそうに聞いていたビアトリクスが、ふっと笑みを浮かべて言った。
「セミラミス、私、こういう生活をしたことがなかったから、思っていたより楽しかったわ」
その言葉を聞きながら、ゼインはビアトリクスの様子を注意深く見つめていた。
彼女の変化は、明らかに良い兆しだと感じられた。
かつてのビアトリクスは、どこか危うさを抱えていた。
十八歳という若さで国の命運を背負い、過剰な責任を一身に抱え込んでいた。
サイサリス公国の滅亡も、自身が捕らわれの身となったことも、すべて自分のせいだと思い込んでいたのだ。
ゼインは、その思いを痛いほど理解していた。
もちろん、これから先、サイサリス公国再興という現実を前にすれば、彼女が再び苦悩を抱えることもあるだろう。
だが、今こうして笑っているビアトリクスを見るかぎり、彼女は少しずつ前へ進み始めている。
ゼインには、そう思えた。
やがてゼインが、皆に向かって口を開いた。
「明日には、ティモール王朝の領内に入る。
サボーナまでは、あと三日ほどだ。
国境を越えれば、アンドラ公国もそうそう手を出しては来られないはずだ。
ここまで追撃がなかったのは、モーゼルがうまく立ち回ってくれている証拠だ。
アンドラ公国が混乱していると見て間違いないだろう。
皆には言ってなかったが、俺は草原で二年ほど暮らしていたことがある。
そのときの友人に、サイサリス公国再興について協力を頼む手紙を出してある。
その返事が来るまで、ティモール王朝で足止めになる。
覚えておいてくれ。
本当は、その返事を受け取ってから、あんたを救出したかった。
だが、アンドラ公国に捕らわれたままの状況の方が危険だった。
だから、先に動いた。
それと、ビアトリクス。
キール将軍に宛てて、今の状況と今後の方針を伝える手紙を書いてほしい。
ティモール王朝にいるあいだに、そういった調整を済ませておきたい」
ゼインの話を聞いたブーディカが、呆れたように肩をすくめて言った。
「ゼイン、あんたの話はいつも唐突すぎるよ。
草原で暮らしてたなんて、今まで一度も聞いたことなかった。
どうりで馬の扱いに慣れてるわけだ。
その草原での昔話、今から聞かせてくれるのかい?」
ゼインは、照れ隠しのように笑ってから答えた。
「そんな昔の草原での出来事なんて、もう忘れちまったさ。
ただ、忘れられない友人が、今も草原にいる。だから頼んでみるだけだ」
ゼインの話を聞き、ビアトリクスは驚いた。
草原の民を味方に引き入れるという彼の提案が、決して根拠のない話ではないと気づいたのだ。
だが、ゼインがいつ頃、草原で暮らしていたのかが気になり、口を開いた。
「草原にいたことがあるのね。
その頃に、サイサリス公国に攻め入ったことはあったの?」
「昔のことなんてよく覚えてねぇ。
まあ、あんたがそれで納得するとも思えないけどな。
そもそも草原の民ってのは、大きな部族から小さな部族まで、四十近くが暮らしてる。
部族同士のつながりはあんまり強くないし、ほとんどが移動生活だ。
俺がいた頃は、サイサリス公国やティモール王朝に攻め込む連中もいれば、東側にいた部族にはザルツ王国を狙う連中もいた。
逆に、それぞれの国と交易してる部族もあった。
戦いを好む奴らもいれば、争いを避けて暮らす連中もいたさ。
みんながみんな野蛮ってわけじゃねぇ。
どこの国でも似たようなもんだろ。
草原の話は、そのうちゆっくり話すさ。
今、あんたが気にしてるようなことは何もない。安心していいぜ」
セミラミスは、そっとビアトリクスの肩に手を置きながら、ゼインを睨みつけた。
「忘れたなんて、いい加減なこと言うんじゃないわよ。
このお姫様にとって、自分の国を攻めた相手かどうかってのは、とても重要なことなんだから」
ゼインは肩をすくめて笑った。
「だから言ってるだろ、そんなことしてねぇって。安心しな」
どこまで本気なのかは分からなかった。
だが、ゼインがここまで断言する以上、嘘ではないだろうとビアトリクスは思った。
同時に、彼と出会ったときから抱いていた「掴みどころのなさ」が、今もなお拭えないことに気づいた。
フランク王国南部の港町ナホトカの出身で、草原に暮らした経験があり、ルグルスの大森林では盗賊をしていた。
経歴を知れば知るほど、ゼインという男の本質は見えてこない。
その不可解さに、ビアトリクスはわずかな不安を覚えた。




