【015】セミラミスとビアトリクス、馬車の中の約束
アンドラ公都からティモール王朝の王都サボーナまでは、およそ三百キロ。
行程にして十日を要する道のりである。
ゼインたちが公都を発って、すでに三日が過ぎていた。
本来なら八人全員が馬を駆けたいところだが、それでは目立ちすぎる。
そこでアンドラ領内の移動は馬車を用いることにした。
馬車の中で、ビアトリクスは静かに悩んでいた。
ゼインにどう接すればいいのか分からなかったのだ。
公女として育った彼女は、上下関係のある人間関係には慣れていた。
だが、対等な関わり方はほとんど経験がない。
「友人」と呼べる者はいても、互いを呼び捨てにするような関係は持ったことがなかった。
だからこそ、ゼインから「ビアトリクス」と呼び捨てにされることに、どうしても慣れなかった。
自分はもはや公女ではなく、かといって盗賊の仲間でもない。
ゼインは経験も存在感も抜きん出ており、セミラミスやエルヴィスたちもそれぞれの力を示している。
マザランにしても年は下だが、確かな実力で仲間の信頼を得ている。
そんな中で、自分だけが立場を持たない存在であることを、ビアトリクスは痛感していた。
どう接すべきか思いあぐねていたその時、隣に座るセミラミスがふと声をかけてきた。
彼女はこれまで公女に好意的ではなかったが、屋敷を抜け出した後の姿を見て印象が変わりつつあった。今は無事にアンドラ公国を離れたこともあり、わずかな余裕が生まれていたのだ。
不安げに座るビアトリクスを、自然と気にかけようとする気持ちが、セミラミスの胸に芽生えていた。
セミラミスが、柔らかな声で問いかけた。
「姫様、どうされました?体調が優れないのですか?
それとも、何か思い悩んでいらっしゃるのでしょうか。
これからしばらくは共に過ごすのです。
気になることがあれば、何でもお話しください。
私はそのためにここにいると思っていただいて結構です」
ビアトリクスは、ゼインたちとの距離感について相談したかった。
けれど、それをどう言葉にすればよいのかがわからなかった。
「馬車に乗ってはいますが、気分が悪いわけではありません。
普段は騎馬での移動が多かったので、こうした移動に慣れていないだけです。
ですから、あまりお気遣いなさらないでください」
セミラミスはその答えを聞きながら、優しく微笑んだ。
「ということは、その顔色が冴えないのにはやはり別の理由があるのですね。
お互いに気楽に話しましょう、と言うのはさすがに無理かしら。
姫様がそんなに硬い表情をなさっていると、私まで緊張してしまいます。
正直に言えば、もう十分に緊張していますけれどね」
「私はあなた方とはほとんど初対面ですし、私が緊張しているのは当然だと思っています。
でも、あなたも緊張されているのですか?」
セミラミスは小さく頷き、言葉を続けた。
「姫様、その話し方なんです。
あなたの言葉遣いは、まさに公女そのもの。
きっと今まで大変なご苦労をされてきたのでしょう。
政治や経済を担い、一人の武将として責務を果たし、ただ一人の跡取りとして国の未来を背負い、戦場では兵を率いて命を預かる。
そういう日々を歩んできたのだと分かります。
けれど、世間の十八歳の娘はそんな口調をしないんですよ。
だからこそ、不器用なあなたが、私はとても好ましく思えるんです」
その声には、優しさと真剣さがにじんでいた。
「私たちは言いたいことがあれば、はっきり口にします。
あなたがどう感じているかは分かりませんが、私たちはもう、あなたを仲間だと思っているんです。
もちろん、盗賊の一味になれという意味ではありません。
あなたが困っていたら私たちは助けるし、逆に私たちが困っていたら、あなたにも助けてほしい。
ただそれだけのことです。
たとえサイサリス公国の再興までの期間限定の関係だとしても、私たちがあなたを見捨てることは決してありません」
思いがけないセミラミスの言葉に、ビアトリクスは胸の奥が温かくなるのを感じた。
これまで、自分はあまり好かれていないのではないかと、どこかで思っていたからだ。
「ありがとうございます。そのお気持ち、とても嬉しく思います」
そう返したビアトリクスに、セミラミスは微笑みを浮かべながらそっと手を伸ばした。
彼女の両手がビアトリクスの頬を包み、その顔を正面へと向かせる。
「ビアトリクス、違うの。そういうときは、「わかったわ、セミラミス」って言うのよ」
唐突な仕草に、ビアトリクスは恥ずかしさを覚え、思わず目を伏せようとした。
だが、セミラミスの両手が優しく頬を押さえ、それを許さない。
「言ってごらんなさい」
柔らかな声に促され、ビアトリクスは頬を赤らめ、小さな声で答えた。
「わかったわ、セミラミス」
その瞬間、セミラミスは姉が妹を包み込むように、ビアトリクスをそっと抱き寄せた。
その腕の中で、彼女の頭を優しく抱きかかえる。
「ビアトリクス、よく言えたわね」
セミラミスは穏やかに微笑み、優しく語りかける。
「経験が少ないのは仕方ないわ。でも、気にしすぎることはないの。
それに、ゼインやエルヴィスたちは、あなたが思うほど何も気にしていないと思うわ。
まずはサイサリス公国を再興して、大公に就くところまで頑張ってみて。
その先のこと、ゼインたちとの関係をどうするかは、そのときのあなた自身が決めればいい」
ふっと表情を緩めると、セミラミスは冗談めかして言った。
「たとえ、あなたがこの再興の途中で私たちを裏切ったとしても、私はあなたを恨まない。
その代わり、ゼインを問い詰めるでしょうね。「どうしてあんな女を助けたのよ!」って」
そう言ってセミラミスは、ビアトリクスからそっと離れ、馬車の小窓から外を眺めた。
やがてふいに振り返り、やわらかな笑みを浮かべる。
「ゼインのことも、エルヴィスのことも、みんな呼び捨てでいいのよ。
彼らは変わらない。でも、あなたが変われば、きっと世界の見え方も変わってくる」
その言葉に、ビアトリクスは恥じらいを含んだ笑みを浮かべながら答えた。
「わかったわ、セミラミス」
そして、馬車の中にはふたりのささやかな笑い声が、やわらかく響いた。




