【014】レギレウス将軍の追及、甘き大公の介入
それを聞いたレギレウス将軍は、深く息を吸い込んだ。
その直後、先ほどとはまったく違う、鋭く張り詰めた声を発した。
「モーゼルよ、アンドラ公国を軽んじているのか。
大公と私を目の前にして、よくも抜け抜けとそのようなことが言えたものだ。
こちらは証拠を掴んでいると言っているのに、なぜ平然と知らぬ存ぜぬを通すのだ。
我々には、ビアトリクス公女がどうしても必要なのだ。
お前がこれまでアンドラ公国にどれほど貢献してきたかは理解している。
だからこそ、温情をもって対応していることに気づかぬのか。
だがな、証拠などなくとも、お前をこの場で捕らえ、白状できるよう拷問することもできるのだぞ」
怒りを露わにしたレギレウス将軍の言葉を、モーゼルは立ったまま静かに受け止めていた。
しかし次の瞬間、崩れ落ちるように平伏し、深く頭を垂れて答えた。
「商人の端くれに対して、レギレウス将軍のお声はあまりに恐ろしゅうございます。
アンドラ公国が誇る名将にそのように言われては、返す言葉もございません」
平伏したままのモーゼルに向かって、レギレウス将軍が一歩踏み出す。
その動きに呼応するように、剣を抜く金属音が、静まり返った室内に鋭く響いた。
さらにもう一歩、近づいた将軍が剣を振り上げた。
「モーゼル!」
怒声が室内に響く。
その瞬間、モーゼルは死を覚悟した。
「レギレウス!」
鋭い声で制したのは、シュール大公だった。
レギレウス将軍の動きがぴたりと止まる。
大公は椅子から立ち上がり、ゆっくりとした口調で続けた。
「いやいや、分かっておったよ。
まさか、ここまでアンドラ公国に尽くしてきたサイラス商会が、ビアトリクス公女を誘拐しようなどとは、もっての外。私は最初から分かっておった。
この場に呼んだのも、そなたを試すためだ。
これほどの緊急事態を伝えるにあたり、あえて試練を与えた。
疑いをかけたことは茶番。どうか許してくれぬか」
レギレウス将軍は目を大きく見開き、シュール大公をじっと見つめた。
その瞳には、こう映っていた。
確かに相手を御しやすくするには効果的かもしれん。
だが、問い詰めの最中にここまで腰を砕くとは、あまりに情けない。
やがて将軍は再びモーゼルへ視線を戻し、短く告げた。
「大公がそのようにおっしゃるのであれば、我々としても、そなたが誘拐に関与していたとは考えないでおこう」
平伏していたモーゼルは、安堵の色を浮かべながら顔を上げる。
「シュール大公が茶番と仰せならば、私には何もなかったことで結構でございます。
ただ、お二人がお揃いでお声をかけくださったので、いったい何事かと案じておりました。
してその上で、ビアトリクス様の件であれば、なるほどと得心いたしました。
これほどの事態であれば、先ほどのレギレウス将軍のお言葉も十分に理解できます。
さて、この件で私にお話があるとすれば、何かお手伝いできることがあるのではと存じます。
シュール大公の寛大なお心にお応えするためにも、ぜひお力添えさせていただきたく思っております」
シュール大公は静かに言った。
「まず、そのように平伏していては話がしづらい。立つがよい」
モーゼルは深々と頭を下げ、感謝の意を込めて静かに立ち上がった。
大公があえて自分を起こしたのは、寛容さを示すためだろう。
しかし、モーゼルの胸中には別の思いがあった。
自分はまだ、アンドラ公国にとって何一つ有益な情報を差し出してはいないのだ。
隣に控えるレギレウス将軍は、明らかに落胆した表情を浮かべていた。
その視線は、「今こそ相手の本音を引き出せる好機だった。それを大公は甘さゆえに手放した」と語っていた。
モーゼルは心中で大公の人柄を推し量りつつ、静かに案じていた。
あまりにもお優しすぎる、と。
やがて、大公が再び口を開いた。
その声は先ほどよりわずかに落ち着き、低く響いた。
「分かっておると思うが、他国に知られるのは外聞が悪い。
ビアトリクス公女が誘拐された件は、くれぐれも口外せぬように」
モーゼルは、すぐさま深く頭を下げて応じた。
「承知いたしました。
ところで、今朝の出来事と伺いましたが、犯人の目星はすでについておられるのでしょうか」
シュール大公は表情を変えずに答える。
「報告によれば、身代金の要求があったそうだ。
たかが金目当ての盗人風情が、アンドラ公国に喧嘩を売った。その報いを思い知らせてやるつもりだ」
モーゼルは、言葉を慎重に選びながら静かに尋ねた。
「金銭目当ての誘拐、ということでございますか」
先ほど自分を追い詰める際に口にした「証拠」には、どうやら裏付けがないらしい。
そう判断したモーゼルは、あえてシュール大公ではなく、レギレウス将軍へ視線を向け、問いを投げかけた。
レギレウス将軍は、先ほどの激高が嘘のように落ち着いた口調で答える。
「金目当て、その可能性も否定はできぬ。だが、今回の誘拐にはどうにも解せぬ点が多い」
将軍は淡々と、しかし鋭さを帯びた声音で続けた。
「まず、ビアトリクス公女が捕らわれていた部屋の所在を、犯人が正確に把握していた形跡がある。
さらに、侵入に使われた鍵爪は、サイサリス公国製のものであることが分かった。
実行犯はごく少数と見られ、争った痕跡もほとんど残っていない。
そして、侍女は殺されずに生かされていた。
これらを総合すれば、金銭目当てよりも、計画的な救出劇と見るのが自然だ。
犯人はビアトリクス公女と面識があった、と私は考えている」
将軍の視線は、鋭くモーゼルを射抜いていた。
その眼差しを受けながらも、モーゼルは内心で感嘆する。
さすがはレギレウス将軍。この短時間で現場を確認し、ここまで状況を把握しているとは。
だが同時に、懸念もあった。侍女がゼインたちの存在を口にした可能性がある。
とはいえ、将軍の様子からは、彼女を徹底的に取り調べようとする気配は、まだ感じられなかった。
それを確かめるように、モーゼルは静かに口を開いた。
「かしこまりました。
つまり、ビアトリクス様と面識があったという理由で、私は疑われていたわけですね。
今後は、その疑念を払拭できるよう尽力いたします。
ところで、ビアトリクス様と面識があったのは、私一人だけなのでしょうか?」
モーゼルは、さりげなく探りを入れるためにその質問を投げかけた。
彼が確かめたかったのは、リディアがすでにどの程度の取り調べを受けたのかという点である。
もし徹底的に追及されているのなら、ゼインたちの存在まで明るみに出てしまう恐れがある。
逆に、まだ軽い供述しか取られていないのであれば、猶予は残されている。
すると、答えようとしたシュール大公の動きを、レギレウス将軍のひと言が遮った。
「それについて答えるつもりはない」
将軍の冷ややかな声音に、モーゼルはすぐに頭を下げる。
「恐れ入ります。立ち入ったことをお伺いし、失礼いたしました」
レギレウス将軍から「下がってよい」と言われたモーゼルは、
「何かお役に立てることがあれば、どうぞお申し付けください」と一礼し、静かに執務室を後にした。
モーゼル自身、ゼインたちが実際にどのように誘拐を実行したのかは知らなかった。
だが、落ち着けばゼインから手紙が届くだろう。そう信じていた。
それまでの間にすべきことは一つ。
アンドラ公国の貴族たちに、これまで以上に深く接近し、情報を収集すること。
モーゼルは心を固め、静かに公宮を後にした。




