【013】モーゼルの覚悟、沈黙の対価
モーゼルは、遅めの朝食をとりながら、昨夜出発したゼインたちのことを考えていた。
ビアトリクス救出の成否をこの目で確かめたい。
そう願って、モーゼルは屋敷までの同行を申し出た。
だが、ゼインはきっぱりと断った。
「失敗した場合、あなたは足手まといになる」
その一言に込められた意図を、モーゼルはすぐに理解した。
足手まといというのは、守り切れないかもしれないという意味だ。
作戦が失敗し、自分たちが捕らえられるような事態に陥っても、モーゼルだけは巻き込まないように。
ゼインはそう考えていたのだ。
その気持ちが痛いほど伝わっていたからこそ、モーゼルは昨夜、一睡もできなかった。
もし作戦が失敗していれば、ゼインたちはこの商館へ戻ってきたはずである。
だが、今朝になっても誰一人として戻らず、何の知らせもない。
それこそが、作戦が計画通りに進み、不具合すら起きなかった証だった。
「あれだけの顔ぶれを揃えて、失敗するはずがないではないか」
モーゼルは、自分を落ち着かせるように小さくつぶやいた。
そのとき、使用人が入ってきて、公宮からの使者が到着したと告げた。
モーゼルはすぐに「通しなさい」と指示し、もう一人の使用人には朝食の片付けを命じたうえで、使者を迎え入れる。
ゼインたちが万が一捕らえられていたとしても、全員が拘束されるとは考えにくい。
それを踏まえても、アンドラ公国がこうして動きを見せるのは、あまりに早い。
そう思いながら部屋に入ってきた使者を見た瞬間、モーゼルはその顔に見覚えがあることに気づいた。
モーゼルは、そのことにわずかに安堵した。
「おはようございます。今日はどのようなご用件でしょうか」
昨夜一睡もしていなかったとは思えないほど、平静な顔つきだった。
そして、いつものように微笑みながら応じる。
その落ち着いた態度とは対照的に、使者は明らかに慌てた様子で、早口に言った。
「大公より、至急公城まで来てほしいとのことです」
その慌てぶりを見て、モーゼルはあえてゆっくりと、はっきりした口調で問い返した。
「ご用件は何でしょうか」
使者は困ったような顔で答える。
「申し訳ありません。内容については一切聞かされておりません。
大公ご自身に直接お尋ねくださいとのことです」
モーゼルはすぐに支度を整えて伺うと告げた。
準備を進めながらも、心の中では、おそらくビアトリクス公女の誘拐に関する件だろうと目星をつけていた。
しかし、なぜ自分が呼び出されるのか。
救出劇はまだ公になっていないはずだ。
家の者も街の人々も、そのような話を口にしておらず、噂にもなっていない。
直接、公城で確認するしかないか。
そう考えつつも、わずかに引っかかることがあった。
使者が顔見知りの人物であったという事実である。
もし本当に自分を取り調べるつもりなら、見知った者ではなく、もっと強硬な手段で来るはずだった。
そう推察したモーゼルは、件の真偽を見極めるため、静かに使者とともに屋敷を後にした。
公城に着くと、モーゼルはそのまま大公の執務室へと通された。
扉を開けると、シュール大公が机に座り、じっとこちらを見つめている。
その手前には、レギレウス将軍が直立して待っていた。
室内には、他の誰の姿もない。
そして、モーゼルの座る椅子すら用意されていなかった。
やはり、これはビアトリクス公女の件だな。
そう察したところで、レギレウス将軍が口を開いた。
「モーゼル殿。非常に残念な知らせだ」
声に怒気はなかったが、静かな圧力がこもっていた。
「先ほど、公女付きの侍女が自白した。
その証言によれば、今回の誘拐事件にそなたが関与していたとのことだ」
将軍は一歩踏み出すように、語気を強める。
「申し開きがあるなら、この場で聞こう。
我らはビアトリクス公女を手放すわけにはいかん」
そして、最後に明確な警告を添える。
「この場には三名しかいない。素直に話すのであれば手荒なことはしたくない。
だが必要とあらば、相応の手段も取る覚悟はある」
なるほど、ゼイン様は結局、あの侍女を殺せなかったのですね。
モーゼルは心の中で静かに呟いた。
もともと、今回の救出が長い逃避行になることは想定されていた。
馬に乗れず、戦闘力もない侍女を連れて行くのは現実的ではない。
ゼインも、ビアトリクス公女も、侍女自身も、その結論に納得していたはずだった。
だが今、レギレウス将軍の口ぶりからすると、侍女は生き延び、なおかつ自白をしたという。
ゼイン殿は、やはり優しいお方だ。
モーゼルの胸に、ひとつの感情が湧き上がる。
戦場では容赦なく敵を斬り伏せてきた男が、あの場面ではたった一人の侍女を殺せなかった。
戦略として見れば未熟で、非情になりきれなかった証拠でもある。
だがモーゼルは、そんな欠点が嫌いではなかった。
むしろ、それこそがゼインらしさだと思えた。
心のどこかで、穏やかな気持ちになっている自分に気づく。
モーゼルは、改めて目の前の二人に視線を向けた。
そもそも、この二人は甘い。そう判断する根拠は明確だった。
まず、使者として寄越されたのが顔見知りの人物であったことだ。
もし本気で誘拐事件の関係者と疑うのであれば、屋敷を兵で囲み、その場で拘束するのが筋である。
それをせず、こうして穏やかに呼び出している時点で、自分はまだ犯罪者としては扱われていない。
さらに、この執務室にいるのは大公、レギレウス将軍、そして自分の三名だけだった。
通常なら、司法官や記録係といった官僚が同席していて然るべきである。
つまり、これは正式な取り調べではない。
明確な証拠もないまま、何らかの自白を引き出したいのか。
あるいは、ビアトリクス公女の誘拐という事実を他の者に知られたくないのか。
モーゼルは思考を巡らせ、静かに頷いた。
そして顔を上げ、二人の目をまっすぐに見据えて口を開いた。
「レギレウス将軍、少々話の筋が見えません。
ビアトリクス様が誘拐されたということでしょうか」
モーゼルはそうだけ答え、静かに相手の出方を伺った。
その問いに、レギレウス将軍は苛立ちを隠さず声を荒げる。
「モーゼル、白々しいことを言うのはやめてもらおう。
こちらはすでに証拠を押さえている。
だが、ビアトリクス公女を無事に取り戻せさえすれば、大事にするつもりはない。
今なら穏便に済ませられる道もあるのだ」
それは、警告と譲歩を巧みに織り交ぜた、政治的な誘いだった。
モーゼルは、その意図を即座に読み取り、大公と将軍を満足させるため、あえてへりくだった態度で応じた。
「何度も同じことを申し上げるようで恐縮ですが、私にはまったく身に覚えがございません。
証拠がおありだと仰いますが、そもそも私がビアトリクス様を誘拐する理由など、どこにありましょうか」
モーゼルは一度、視線を大公へ向けたのち、静かに言った。
「これまで私は、アンドラ公国に数々の貢献をし、そのおかげで多大なる恩恵を賜ってまいりました。
諸侯の皆様にも日頃から温かく接していただいております。
そのような方々に、恩を仇で返すような真似を、私がするはずがございません」
語調は柔らかいが、その声には誠意と確かな自負がこもっていた。
「確かに、他の方々と比べれば、私がこの国に参じてからの日は浅いでしょう。
しかし、私の忠誠心は、この地に足を踏み入れたその瞬間から、常にシュール大公閣下に向けられております。
どうか、それだけは信じていただきたい」
そして最後の一言に、すべてを込めた。
「もし、疑われること自体が罪であるというのならば、私は逃げも隠れもいたしません。
これまでお世話になったアンドラ公国の皆様に、納得していただけるのであれば、私にできることは何でも致します。
それが命を差し出すことであっても、構いません」
モーゼルは、一息にそう言い切った。
たとえ疑われ、そのまま命を落とすことになろうとも構わない。
もともと、この命はゼインに救われたもの。
だが、ここで全てを白状して命を長らえたとしても、ゼインと再び会うことが叶わぬなら、それは無意味だ。
そう思えば、自分の選ぶべき道はただひとつだった。
ゼインのために死ねるのであれば、それこそが本望である。




