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【011】ブーディカの過去、ゼインに預けた未来

深夜のサイラス商会の商館にて、ゼインが軽い口調で言った。


「さて、行こうか」


これからアンドラ公国に捕らわれているサイサリス公国のビアトリクス公女を誘拐しに行くとは思えないほどの気安さだった。

すべき準備はすべて整えた。あとは実行あるのみ。そんな意図を含んでいるようにも聞こえる。


もちろん、ゼインがそんなことを口にするはずもない。


だが、彼の言葉は常に相手に何かを考えさせる力を持っている。


むしろ、ゼインの言葉から何の意味も見出せない者は、彼の周囲に残ってはいない。

そう言っても過言ではなかった。


暗闇が街を包み、朝日が昇るまでにはまだしばらく時間がある。


人通りのない静まり返った街中を、ゼインを先頭に、エルヴィス、マザラン、セミラミス、ブーディカ、エイナルの六名が、音も立てずに歩を進めていた。


目的地は、サイサリス公国の皇女ビアトリクスが囚われている貴族の屋敷だ。


ブーディカは、これから世間を騒がせるような行動に出るというのに、緊張している様子はなく、むしろ妙な高揚感を覚えていた。


この感覚は久しぶりだ。

これから自分がすること、そして、久しぶりにゼインと共に行動することを、心のどこかで楽しんでいる自分がいる。

その事実に、少しばかり驚いていた。


ブーディカは、ゼインの盗賊団に加わる前、街の警備や商人の護衛、戦場での戦働きなどをこなしていた。

それは決して、好きで選んだ道ではなかった。

この大陸で、女性ではなく「一人の人間」として生きていくには、そうするしかなかったのだ。


かつて暮らしていた村は、戦乱によって焼かれ、襲撃された。

命からがら逃げ延びたものの、女手ひとつで生き延びるのは、この大陸ではあまりにも過酷だった。


ただ一つ、幼いころから父に教わっていた剣だけが、唯一の救いだった。

父は村で剣術を教えており、剣を振るう時間が心から楽しかったことを、今でもはっきりと覚えている。


父はかつて、どこかの国で騎士として仕えていたが、母と結婚する際に騎士を辞め、母の村へ移り住んだという。

ささやかな幸せだった。だが、それも戦乱に巻き込まれて失われた。


村の人々も、父も、そしてブーディカ自身も、村を守ろうと戦った。

だが、訓練された軍隊を前にしては、民の抵抗など無力だった。


多くの村人が命を落とし、その中には両親も含まれていた。

それ以降、彼女はずっと一人で生きてきた。


いくらブーディカの剣の腕が優れていても、女だからと甘く見られることは数えきれないほどあった。

だが、彼女を侮った男たちは、例外なく小物ばかりだった。

そのたびにブーディカは彼らを返り討ちにし、痛い目を見せてきた。


そんな中で、唯一、最初から対等に接してくれたのがゼインだった。


ゼインとの出会いは、最悪な形だった。

ある街で商人の護衛を請け負っていたとき、彼女の一行はゼインたちに襲撃された。

気づいたときには味方は全滅し、自身もあっという間に捕らわれていた。


盗賊に襲われた経験はこれまでにもあったが、ゼインの盗賊団のように、何が起きたのか分からぬうちに全てが終わる。そんな経験は初めてだった。


なぜ襲撃されたのか。

後になって聞かされた話では、彼女が護衛していた商人は、かなり悪どいやり方で金を稼いでいたらしい。

確かに、報酬は相場以上だった。だが、事前にその人物の素性を調べなかった自分にも落ち度があった。

人を見る目がなかった。そう自嘲しても、もはや後の祭りだった。


ブーディカがゼインたちに捕らえられたとき、真っ先に考えたのは「ここで辱めを受けるくらいなら、いっそ死んだ方がましだ」ということだった。

だが、そんな彼女にゼインはこう言った。


「殺すのは簡単だ。けど、あんたに生きる意思があるなら、その腕を買いたい。


いろいろあって商人の護衛なんて危険な仕事をしてるんだろう?

あんたと戦って、剣に積み重ねた年季を感じた。

どうしてそこまで剣を使えるようになったのか、どんな過去を背負ってるのか、正直、そんなことには興味はない。


けどな、あんたの過去がくだらないとは思わない。

誰だってそれぞれの過去があって、今がある。

だからこそ、過去を否定することは、今のあんたを否定することになる。


ただ、俺にとっては、あんたの過去は必要ない。


欲しいのは、あんたのこれからだ。

未来を俺に預ける気があるなら、一緒に来ないか?」


と、ゼインに誘われた。


「この盗賊風情が。あたしは、盗賊になるくらいなら、生きていたいとも思わない」


そう言い返したい気持ちはあった。

だが、彼らに捕らわれていたルグルスの大森林の村の様子を目にして、その言葉は喉元で止まった。


どこかで見たことのあるような光景。

それは、かつて自分の村が襲われる前の、穏やかで静かな日常を思い起こさせるものだった。


村では、同年代の女性たちが笑顔で暮らしていた。

時と場所が違っていれば、自分もこの村の一員として、彼女たちと同じように暮らしていたのかもしれない。

そう思ったとき、すぐに答えを出す気にはなれなかった。


「しばらく考えさせてほしい」


そう言って、即答を避けた。

ブーディカは、この村で暮らす女性たちの話を、もう少し聞いてみたかったのだ。


やがて話を聞いていくうちに、彼女たちの思いが少しずつ伝わってきた。


「盗賊団」とは言っても、彼女たちはここで痛めつけられたことなど一度もなかった。

むしろ、この村にいる限りは安全が保障されており、外の世界へ出るつもりはないという。

そして何より


「私たちは捕らわれているなんて思ってない。保護されてるって思ってるの」


そう言った彼女たちの言葉が、ブーディカの胸に深く刺さった。


ブーディカは思った。

あたしは、ただ彼女たちとは進む道が違っただけなのかもしれない、と。


もし、あたしの村が襲われたあのときにゼインと出会っていたなら、

今ごろ、あの村の女性たちと同じように、穏やかに暮らしていたのかもしれない。


そう考えたとき、ゼインと行動を共にすることに、躊躇などあるはずがなかった。


過去には出会えなかったけれど、今、ゼインと出会った。

ならば、今がその時なのかもしれない。


そして、あたしのような境遇で苦しむ人間を、少しでも減らせるのなら、ゼインと共に在ろう。

ゼインがもし、誤った方向に進みそうになったときは、その時は、この命を懸けてでも止めればいい。


今のあたしにとって大事なのは、ただひとつ。

ゼインが、今この瞬間、自分を必要としてくれている。その事実だった。


数日後、ゼインに「一緒に行動する」と伝えたときの、あの嬉しそうな顔が今も忘れられない。

彼は、なんの打算もなく、ただ純粋な好意を向けてくれた。

まるでこちらが何かを謝らなければならないような、そんな気持ちにさせられるほど、やわらかく、あたたかい笑顔で迎え入れてくれた。


彼のいちばんの魅力は、きっと「人の気持ちを逸らさない」ことなのかもしれない、とそのとき思った。


それからというもの、ずっとゼインと共に行動してきた。

だが今回、もしこの作戦に呼ばれていなかったとしたら

自分がどう感じたか、想像するだけで怖くなる。


あのとき、あれほど強く必要とされていると感じたのに。

今になって不要だと思われたら、私はどうなっていただろう。


ゼインにとって、自分が「価値のない人間」と見なされる。

それだけは、どうしても耐えられなかった。


たとえ今回の作戦に呼ばれなかったとしても、ゼインはきっと「おまえを心配したから参加させなかった」と言うだろうし、決して私を不要だとは思わないはずだ。そう、頭では分かっている。


けれど、私はそうは思えないかもしれない。

必要とされていないのではないか、ときっと考えてしまう。

それが怖かった。


だからこそ、こうしてこの作戦に加わることができて、本当に良かったと思った。


そんな思いを胸に、ブーディカは無言で足を進める。

やがて目的地が見えてきた。


私は、必要があってこの作戦に参加している。

それを証明するためにも、やるべきことを果たすだけだ。そう心に決め、口元を引き締めた。


ブーディカがそんな思索にふけっている間に、一行は、ビアトリクスが捕らわれている屋敷へと辿り着いていた。


塀の際に身を寄せたところで、ゼインが静かに振り返る。

そして仲間たちにだけ聞こえるような低い声で、こう言った。


「さっさと終わらせて、アンドラ公国とはおさらばするぞ」

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