誰もが納得するハッピーエンドは嫌いな方だ。
情勢は明確に決していた。
「終わったな…」
ヒディアスは勝利を確信し、不敵な笑みを浮かべて呟いた。
完全に沈黙した来葉の四肢。人形のようにだらんと腕を垂らし、ぴくりとも反応しない。あれほど生意気だった口も開く様子はない。
血の代わりに氷の冷気が赤黒くなった腹部からあふれ出ている。
死んだ。そう確信するには十分な情報だった。
惜しい人間だ。我が計画に気付くだけの脳があるならこの結果も判りきっていたはずだ。要因は若さなのだろうか。
ヒディアスは微動だに動かぬ顔を眺め、考えた。
「……かたねぇな…」
「な!?」
ヒディアスの思考が一瞬にして停止する。ありえないことが起こったのだ。
トンファーからは何の生命反応もない。人の気配もない。当然魔力も感知できていない。
目の前にいるのは死人だ。
「おれはここで出たくなかったんだけどな」
そこには紫がかった綺麗な銀髪の来葉の笑顔があった。
脳内が錯乱する。
「ば、ばかな!汝は死んでいるはずだ!現に魔力も発しては―」
「どうでもいいだろうが……」
面倒そうなため息をついて、ヒディアスの気を流す。
今現在、トンファーからは血流が流れている動きはない。筋肉は硬直しており、まさに死体だ。
喉だって締め上げている。会話させるほどの気道を与えるわけもない。
背筋に凄まじい恐怖が走る。
「俺はただな…」
そんな気を知ってか知らずかにやりと来葉の顔が笑う。同時進行で左手に染み出していた血によって壁に陣を描いていると気付くには、数秒の間が空いた。
「まだ死ねないんだよ」
描いた陣を強く叩くと背中の壁が賽の目状に切り裂かれた。
生まれた隙間から疾風が来葉の体を外に引き込む。
「くっ…!」
巻き込まれる前に慌てて腹部に突き刺したトンファーを引き抜く。
来葉の体は力を抜いて、背後から落ちていく。不安定な中に背中から落ちていく。
驚いている老人とこぼれている明かりがみるみるうちに小さくなって、やがて夜闇へと溶け込んでいった。
風を切る音だけが今聞こえている。
顔を横に向けると夜闇の中に、赤い点がまばらに点滅してる。戦闘の閃光とわかるとまた空へと顔を向ける。
彼らは計算通りに殺しあっている。これで自分は逆賊扱いされるだろう。誰もが幸せに暮らし、戦争がない平和な上界を作り上げた王を殺そうとしたのだから。
視界に髪から銀箔がぱらぱらと舞い上がっていく。
背中に吹きすさぶ風がどんどん強くなっていく。確か視界の横に見えているビルから自分は落ちたのだから当然といえば当然かもしれない。
冷たい腹部に手を当てる。氷を剥がせば穴が開いていない健康な皮膚がある。
「……後は頼むぞ、京」
見えないはずの王の間を見つめ黒髪の来葉は枯れた声でつぶやいた。
*
「なにが…」
信じられない様子で自分の手を見直す。
何の手ごたえも無かった。意思を失った筋肉は、ちょうど豆腐に包丁をいれるように微々たる抵抗すらない。あの時の来葉にも何の手応えは無かった。
だがヒディアスの意に反し、来葉は笑った。余裕に満ちた表情でヒディアスと目を合わせ、背中の壁を崩して逃げ切った。
死人が動くはずはない。
あれはいったい……。
「…来たか」
隠すように手を口元につけたヒディアスは、廊下を駆ける足音に気付く。
まだ彼が残っている。来葉だってあの高さからでは生きてはいられまい。戦うべきはもう一人。
冷めた顔つきに戻し、来葉が開けた扉の方に目をやる。
直後、駆けてきた少年がそこに現れた。
「…暫くだな」
そこにいた者は息を切らしている少年だった。右手に大きすぎる大剣を抱え、表情にはあどけない面影がある。
「お前は……!」
少年は絶句する。
そう少年はヒディアスの顔を知っている。無意識でも忘れたいとは思えなかったはずだ。
ヒディアスは立ち直り、正面から少年と向かい合う。
背中側から流れ出す夜風が対峙する二人の間を流れていく。
「…お前が王なのか………」
目をひんむき、わなわなと震える口で言う。
「我が息子よ。なにを怖れる?」
信じらんないという表情に対し、尚も彼は少年を見透かす言葉を続く。
「…研究室にいた……!」
「そうだ。我が汝を生み出したのだ」
彼は頷く。
白髪はくすんだ灰色に染まっていたが、紛れなくあの中年だった。
理解して京の表情は穏やかになる。
「汝に感情を植え付けた覚えはないが…何をそこまで怖れる?」
ヒディアスは語りかける。
「父親とどう接するべきか分からないのか?それとも強大な力におののいているのか?」
「……」
京は応答しない。
「もしくは……憎しみが心を覆い隠すのが怖いのか?」
不敵に笑ってヒディアスは問いかけた。
「…全部違う」
問いかけが終わり、数秒。後に京は答える。
ゆっくりと大剣の先を銃痕の床からヒディアスの胸に向ける。
「俺が世界を救った時を想像したら、怖くてな……」
下手で引きつった笑顔で笑ってやる。
心境に一番近いのは三つ目だ。京は憎んだことが無かった。自分を受け入れてくれた下界を憎む理由が無かった。
だから、一度憎しみに心を明け渡せば、制御が出来ずに自分が壊れてしまう。責任感という糸が自分をこの体に縛り付けているなら、憎しみは糸を断つための鋭利な刃物でしかない。
それほどまでに京の心は脆く、自身もそれを自覚していた。
「ふん…強がりを」
見え見えの仮面を、ヒディアスは鼻で笑う。
京は大剣を元の位置に戻し、構える。
「だからさっさと倒れろ!」
射られた矢のごとく、一目散に駆け出す。
間合いが詰められる中でヒディアスは小さくその場に跳んでいた。
「はあああああ!」
横になぎ払われる大剣。
だが下に潜り込んだヒディアスは剣圧だけを受け、すかさず京の懐に飛び込み打撃を加えた。
「ぐ…!?」
重い一撃に苦渋の表情を見せる。
奥歯をぎりっと鳴らし、ヒディアスを振り払う。
思ったよりも体が重い。それだけクルーエルの攻撃を受け止めたというわけか。
内臓を破裂させようと打ち込んだが、致命傷までにはいない。手応えでわかる。
京は数回咳き込み、小さく跳躍すると、大剣を垂直に振り下ろした。
硬い床を砕く轟音が王の間に響き渡る。
飛び散った破片を横目に、隙だらけの胴体に喰らわせる。
「ふん……」
煙を巻き上げながらくの字に体が吹き飛ばされる。床を荒く削り取り、やがて、壁に激突した。
あっけない…。こんなものか。
嘲る言葉と失望感が心の中にするりと流れ込む。
ヒディアスの足が強く床を蹴りつける。すぐに漂う煙の中に四肢はすっぽりと包まれ、京の元へとたどり着く。
「いっけえええええええ!」
「……」
両手で構えられた大剣。狙い済ました渾身の突きが放たれる。
先ほどの攻撃とは段違いの速度で、鋭い突きが伸びてくる。
―だがそれすらも遅い。
「な……」
いとも簡単に大剣が真上に跳ね上げられる。両腕もぐいっと持ち上げられ、完全に胴が空く。
緩やかな弧をもう片方のトンファーが描き始めている。延長線上には自分の顔面。
間に合わない。防がなければと意識していても、現実は体が止まったように動かない。
焦燥が加速する。焦った意識の中で煙がトンファーを避けていくのが見える。
―京は見開いた目を強く瞑った。
「―幻想式・蒼駆!」
編成された声が空気中を駆けた。
そして、青き衝撃波がヒディアスを真横から飲み込んだ。
「ぐはっ!?」
衝撃波は壁に到達するとヒディアスを磔にして消えた。
「なにが…」
「ま、間に合ったぁ……」
安堵する声は再び右から聞こえてきた。
呆然とする京は首を右に向ける。
そこには誰が開けたか知らぬ穴から見える夜があり、京と夜を遮るように少女が音を立てずに降り立った。
夜色のコートの隙間から長い黒髪が垣間見えた。顔は縁日で見られる出店で売ってあるようなひょっとこの仮面をつけ、伺えない。
一歩一歩、少女は京に近づいていく。
右手には鞘に収まったままの刀が抱えられている。
「また会ったね。京くん」
少女は笑っていった。
京は初め誰か判らなかったが、すぐに記憶の中に彼女を見出した。同時におびただしいほどの汗が全身からあふれ出すのがわかる。
上界と下界の間の通路。そこで彼女とは出会っていた。
京が影ということを知らせるきっかけを作った人物。
「!」
完全に思い出すと下に向いていた大剣を少女に向けて構える。
恐怖と警戒から呼吸が再び荒くなる。全身のしびれたような痛みが意識の彼方へと消えていく。
真空は驚いたようにつま先をたじろがせ、京と正面から向き合った。
読んでいただきありがとうございます。
ひょっとこ―仮面と言ったらこれでしょ
幻想式・蒼駆―蒼い衝撃波を放つ
来葉真一―落下
浮刃京―ヒディアスの息子。
ヒディアス・ベルン―研究室にいた白髪。
真空―くれぐれも「しんくう」と読まないように