お役目と幸せ 其の四
「お鳥さん、まって」
兵庫は追いかけて家を出た。
お鳥が木戸の前で兵庫を振り返った。
「お鳥さん。戻ることはないよ。今までどおり、一緒に暮らそう」
兵庫はお鳥の背中の寂しさをどうしても見過ごすことが出来なかった。
公儀隠密がどんなに厳しかろうと、幸せに生きる権利はちゃんとあるはずだ、そう思ったのだ。
その言葉にお鳥の目が潤んだように一瞬見えた。
けれど、すぐにそれを断ち切るように頭を振る。
「任務こそ、私の生きる道なのです。私達は幼い頃から体術や暗殺術を教わるの。嫌だなんていっていられない。それが、その家に生まれたものの運命ですもの。そして、私たちにしかできない仕事をして、命を賭してお上の為に密命をこなすことこそ、喜びであり幸せなの」
お鳥は、抑揚なくそういった。
兵庫は、大きく首を振った。
「お鳥さんはちっとも幸せそうじゃないよ。俺んちにいたときよりもずっと悲しい顔をしている。苦しいことは我慢しちゃだめだよ」
お鳥は、兵庫をじっと見つめる。
やがてフッと笑い、目のふちを指の腹で拭った。
そして顔を上に向けてわざと明るい声で言う。
「やっぱり兵庫さんはお優しい。隠し事が出来なくて困っちゃうなあ。でも、私のお役目と兵庫さんのお役目は違う。だから一緒にはいられないの。兵庫さんとの時間は本当に楽しかった。つらいお役目も乗り越えて優しさを忘れずにお役目に勤めてくださいね。兵庫さんのお役目だって兵庫さんの運命なのよ」
お鳥は言葉を続ける。
「私は兵庫さんほどお役目に適している人はいないと思うわ。きっと、喜助が白状したのも兵庫さんのおかげよ。人は優しい人にこそ心を開くのよ。兵庫さん、私にできないことを私の代わりにして頂戴。あなたは忍びとは関わらないで表の世界で優しさを忘れずに生きて」
そういって、兵庫を優しく見つめた。
兵庫は、お鳥の運命の溝の深さを埋める事が到底出来ないことを痛いほど感じた。
お鳥のもつ運命は兵庫の嫌がる拷問など、比べものにならないほど苦しく、つらく、そして、どんなに嫌がってもそれから逃れることはできないのだ。
公儀の隠密とはそれほどまでに厳しいものである。
「お鳥さんは、強いね。俺は駄目だなあ。泣き虫で、弱虫だし。でも、お鳥さんのおかげで俺は、お役目を続ける事に自信が持てたんだ。俺はいつでもお鳥さんの事を忘れないよ。楽しかった事、怖かった事もね。俺、お鳥さんに会えて本当によかった」
兵庫は、あふれ出しそうな涙を堪えてありがとう、と言った。
お鳥は、深々と礼をした。
ちらりと見えたその背中が、無機質な地蔵で一面をしめられていて、あまりにも悲しく孤独を浮き立たせた。
これから、お鳥は悲しみを共有する人もなく一人で生きていくのであろう。
兵庫はそれがいたたまれなかった。
そのときふと、兵庫は喜助の伝言を思い出した。
「あの喜助は、あの世で寿限無によろしく言っておくっていっていたよ。お鳥さん、喜助はきっと心のどこかで気にかけていたんだ。お鳥さんのことを、生まれてくるはずだった子供のことを」
瞬間、お鳥の目にきらりと光が差したような気がした。
そして天を見上げて呟いた。
「そうか、あの喜助がねえ。私、思い違いをしていたのかもしれない。喜助は子供を生んで欲しかったんだ。愛されていない子供なんかじゃなかったんだ」
長い長い大切な名前をお腹の子供につけたときのひと時の幸せは本物だった。
お鳥は胸の中のしこりが取れたように満足げなため息をついた。
「喜助がうらやましい。私も寿限無にあいたいなあ。まあ、私が行くまでせいぜいお守りをして待ってもらうか」
くすくすとお鳥が笑いながら木戸をくぐろうとする。
「ありがとう、兵庫さん。よい夏の夜の夢を見せてくれて」
兵庫も笑顔で見送る。
ふと、お鳥が歩みを止めた。
「そういえば、あの一真というお方。姓はなんとおっしゃるのですか」
「佐倉だけど・・・?」
突然の変な質問に兵庫も思わず変な顔になる。
「佐倉・・・。小太刀の名手・・・」
お鳥は、考えるように口に手を当てた。
「知ってるの?」
「いいえ、名前だけ何となく憶えておりました」
そういって表の暗い道へ消えていった。