第1話 最初の生贄
その扉の前で、冒険者は、初めて長く足を止めた。
石でできた、大きな扉だった。飾りらしい飾りはない。ただ古く、固く、閉ざされている。開く方法は、知っていた。この遺跡の奥へ潜るあいだ、幾度も同じような扉をくぐってきた。
打ち破ったばかりのものが、背後で崩れたまま、動かない。松明の火が、石の面をわずかに舐めている。
手を、伸ばす。
伸ばした左手の甲から前腕へ、引き攣れた痕が走っている。まだ新しい傷だ。かつてなら、念じるだけで消せた。その術は、もう、この身のどこにもない。
触れた瞬間、頭の中へ、言葉が流し込まれた。声ではない。意味だけが、水のように注がれてくる。
――そなたの才を捧げよ。さすれば、扉は開かん。
もう、聞き慣れた言葉だった。
脳裏に、像が浮かび上がる。いまの自分を形づくっているもの。その一つひとつが、輪郭を持って立ち上がってくる。数は、多くない。
そのなかに、剣があった。
剣。
物心ついたときから握り、極め、頂に立った。英雄と呼ばれた男を、英雄たらしめてきたもの。それが、他の像と並んで、静かに浮かんでいる。まるで、順番を待つように。
扉は、急かさなかった。
ただ、開きもしなかった。
◇
遺跡の入り口をくぐったときから、空気の質が違った。
湿ってはいないのに、肌にまとわりつくものがある。松明の火を近づけても、闇はほんの数歩ぶんしか退かない。冒険者は慣れた手つきで剣の柄に指をかけ、奥へと足を進めた。
すぐに、それは現れた。
人の形をしていた。武器を握り、こちらを見据えて立っている。だが、目にあたる場所には何もなく、ただ暗い窪みがあるだけだった。剣を持つもの、斧を担ぐもの、弓を構えるもの、杖を掲げるもの――通路の奥へ進むほど、種類は増えていった。
冒険者にとっては、造作もなかった。
剣を持つ魔物には剣で応じ、間合いを詰めてくる相手には、己の足を速める術で先を取った。火や雷を放つような派手な魔法を、男は修めていない。男の術は、身体を助け、傷を塞ぐ、裏方の類だった。斧の一撃は重いが、直線的で読みやすい。長年かけて磨いてきた技能のどれもが、状況に合わせて自然と引き出されてくる。考えるより先に身体が動く。それが、英雄と呼ばれた男の、当たり前の日常だった。
――いや。
日常では、なかった。
世は、静かだった。国を脅かす魔王もなく、大きな争いもない。魔物といえば、村はずれに湧く小物ばかり。男は英雄と呼ばれていた。剣を執らせれば、横に並ぶ者はいない。剣聖と、そう呼ぶ者もいた。魔法も、槍も、あらゆる武の技を修め、どんな戦況にも応じてみせる。討伐隊を編むとなれば、真っ先に代表として名の挙がる。そういう男だった。
だが、その才を振るう場所が、どこにもなかった。
朝に剣を振り、昼に酒を飲み、夜に眠る。それだけの日々だった。極めたはずの技は、ぶつける相手を失って、ただ身の内で錆びていく。何のために強くなったのか。強くなって、どうしたかったのか。問うても、答えの返らない問いだった。冒険の目的が、いつのまにか、指の間からこぼれ落ちていた。
ここには、相手がいる。
久しく忘れていた張りが、身体の芯にあった。確かに、才のない者にはここは墓場だろう、と冒険者は思った。多彩な魔物は、あらゆる戦い方を試してくる。一つの技しか持たぬ者は、遠からず対応しきれなくなる。だが自分には、すべてがある。
しばらく進むと、通路が開けた。
大きな扉があった。石でできた、意味ありげな扉だった。その前に、これまでの魔物とは明らかに格の違うものが立っている。背が高く、複数の武器を帯びていた。扉の番だと、経験が告げていた。
それでも、手こずる相手ではなかった。
相手の斧を受け流し、踏み込みざまに剣を突き入れる。返す刃で首のあたりを薙ぐ。決着まで、そう時間はかからなかった。崩れ落ちるそれを一瞥もせず、冒険者は扉へと歩み寄った。
手を触れる。
その瞬間、頭の中に直接、言葉が流し込まれた。声ではない。意味だけが、水のように脳へ注がれてくる感覚だった。
――そなたの才を捧げよ。さすれば、扉は開かん。
捧げよ、という一語に、冒険者はわずかに身構えた。
同時に、脳裏へ次々と像が浮かんだ。これまで鍛え上げてきた技能の一つひとつが、輪郭を持って立ち上がってくる。剣。槍。盾。斧。補助の術に、回復の術。数えきれないほどの、自分を形づくってきたもの。
捧げるとは、失うということだろう。
理解した瞬間、冒険者は迷わなかった――いや、迷わなかったつもりだった。数ある技能のうち、最も使う機会の少ないものを選べばいい。斧。ここ数年、握った記憶すらない。ほとんど惰性で身につけていた技能だ。
失っても、痛くはない。そう念じた。
――応、と何かが応えた気がした。
胸のあたりから、するりと何かが抜け落ちていく。斧という武器の重心、刃を振り下ろすときの腰の入れ方、柄を握る手のひらの感触。それらの記憶が、急速に遠のいていく。思い出そうとしても、もう像が結ばない。斧というものが、ただの単語になっていく。
奇妙な喪失感だった。痛みは、ない。ただ、気味が悪かった。自分の内側に、断りもなく他人の手が入った。あとには、そういう感触だけが残った。
――だが。
それだけでは、なかった。抜け落ちたあとで、残ったものへ何かが流れ込んでくるような、淡い予感があった。うまく言葉にならない。自分の内で、何かが動いた。分かるのは、それだけだった。
なぜだ、と冒険者は思った。失ったはずなのに。
問う間もなく、扉が音を立てて開いた。




