第二章:拒絶と贖罪
1.すれ違う歩幅
「……君は」
湊は金網にしがみつくようにして、掠れた声を出した。四歳児の甲高い声帯から発せられた言葉は、中身の二十八歳の男の魂とひどく乖離していて不気味だった。
「あの夜の……路地裏にいた……」
結衣は無表情のまま、ゆっくりとフェンスに近づいてきた。
周囲の「園児たち」は、二人の間に流れる異常な気配に気づき、薄気味悪いものを見るような遠巻きの視線を向けている。
「……やっぱり」
結衣の口から紡がれたのは、絶対零度の声だった。
彼女はフェンス越しに湊の顔をまじまじと見つめ、そして、心底軽蔑したように鼻で笑った。
「あんた、あの時の臆病者ね。こんな近くに生まれ変わってたなんて、本当に最悪」
その言葉は、湊の心臓を鋭いナイフのように抉った。
間違いない。彼女はあの時の女性だ。そして、俺が逃げ出したことを明確に恨んでいる。
「ごめん……ごめんなさい!」
湊は金網に額を押し付け、必死に言葉を絞り出した。
「俺が逃げたせいで……助けを呼べば、君は助かったかもしれないのに……ずっと、ずっと後悔してた。俺は、君に謝りたくて……」
「謝る?」
結衣の声が、一段と低くなった。四歳児の可愛らしい顔つきのまま、その瞳だけが真っ暗な怒りに染まる。
「あんたが謝って、何になるの? 私が死ぬ瞬間、あんたが踵を返して逃げていく背中を見ながら、どれだけ絶望したか分かる? 信じていた男に刺され、見ず知らずの男には見捨てられた。私の人生の終わりは、あんたのその情けない逃走劇で締めくくられたのよ」
「それは……」
湊は言葉に詰まった。何を言っても言い訳にすらならない。事実、自分は彼女を見殺しにしたのだから。
「今さら罪悪感を軽くしたくて探しに来たの? 『ごめんなさい』って言って、私に『気にしないで』って許してもらって、この二周目の人生をすっきりした気持ちで生きたかったわけ? ……本当に、気持ち悪い」
結衣は吐き捨てるようにそう言うと、踵を返した。
「二度と私の前に現れないで。次に顔を見せたら、前世であんたが見殺しにしたのと同じように、今世のあんたを社会的に殺してやるから」
結衣の小さな背中が、園庭の奥へと遠ざかっていく。
四年越しの再会は、最悪の決裂によって幕を閉じた。
湊は金網を握りしめたまま、その場にへたり込んだ。
手のひらに、金網の跡が赤く食い込んでいる。涙がボロボロと溢れ、四歳児の短いズボンを濡らした。
彼女の言う通りだ。
謝って許してもらおうなどという考えは、究極の自己満足でしかない。彼女が負った絶望と孤独の深さは、ただの「ごめんなさい」で埋まるようなものではないのだ。
しかし。
(……今度は、絶対に逃げない)
湊は、涙で滲む視界の先、結衣が消えていった園舎の扉を強く睨みつけた。
一度目の人生では、恐怖に負けて背を向けた。二度目の人生では、彼女の拒絶という恐怖から逃げ出そうとしている自分がいる。
ここで諦めたら、俺はまた「逃げた」ことになる。
彼女がどれだけ俺を憎んでいようと、どれだけ拒絶しようと。俺が彼女にできる贖罪は、彼女の孤独を埋めるまで、絶対に背を向けないことだけだ。
泥だらけの膝を払い、湊はゆっくりと立ち上がった。
狂気に満ちた二周目の世界で、湊の本当の「やり直し」が、今ようやく始まろうとしていた。
2.狂った箱庭(十二年後)
結衣が湊を冷酷に突き放したあの日から、さらに十二年の歳月が流れた。
二人は十六歳。肉体的な年齢は高校生だが、その内面はとうに四十歳を超えている。
この「二周目の世界」における高校という空間は、形容しがたいほどグロテスクな箱庭だった。
教室の風景は地獄だ。授業中だというのに、かつて前世で起業家だった生徒はスマートフォン(前世の知識を使って不自然に前倒しで開発された、分厚くて重い初期型)で株の空売りを仕掛け、前世でヤクザだった生徒は堂々と窓際で煙草を吹かしている。教師たちもとうに教育を放棄しており、ただ時間が過ぎるのを虚ろな目で待つだけだ。
無理もない。生徒の半数以上が、自分より年上の精神年齢と人生経験を持っているのだから。
結衣は、そんな狂った教室の片隅で、ただ一人静かに本を読んでいた。
彼女は前世の記憶を頼りに、暴落する前の暗号資産や株を密かに売り抜け、すでに一生遊んで暮らせるだけの資産を個人口座に築いていた。両親の借金問題も金で解決し、法的な独立の準備を進めている。
誰にも依存しない。誰にも心を開かない。それが、彼女がこの世界で生き抜くための唯一のルールだった。
(……また、見てる)
結衣は本から視線を上げずとも、斜め後ろの席から向けられる視線に気づいていた。
蒼井湊だ。
あの日、「二度と顔を見せるな」と宣告したにも関わらず、彼は執拗に結衣の周囲をうろついていた。いや、うろついているという表現は正確ではない。彼は結衣に決して話しかけず、視界の端に入るか入らないかの絶妙な距離感を保ちながら、同じ小学校、同じ中学校、そして同じ高校へと進学してきたのだ。
(気持ち悪い男)
結衣は内心で毒づいた。贖罪のつもりなのだろうが、自己満足もいいところだ。彼がどれだけ影から見守るような真似をしようと、あの路地裏で背を向けて逃げ去った臆病な背中は、決して結衣の記憶から消えることはない。
不意に、教室の空気がざわめいた。
「おい、白石」
結衣の机の前に立ったのは、ひどく目の下に隈を作った男子生徒——前世で結衣を刺し殺した男、健太だった。
現在の健太は、見る影もなく落ちぶれていた。前世での彼は要領が良く、周囲からの人望も厚かったが、この二周目の世界では勝手が違った。全員が「大人の打算」を持っているため、彼の浅薄な嘘や愛想は誰にも通用しなかったのだ。さらには、前世で犯罪に手を染めていた事実を(なぜか)周囲に悟られ、完全に孤立していた。
「……何?」
結衣が冷たい視線を向けると、健太は血走った目で結衣を睨みつけた。
「お前が……お前が全部悪いんだ……!」
健太の声は、ヒステリックに震えていた。
「前世じゃ、俺はお前と付き合って、それなりに上手くやってた! なのに今世のお前が俺を徹底的に避けるから、俺の人生の歯車が狂ったんだ! お前のせいで俺は……!」
凄まじい責任転嫁だった。結衣は呆れてため息をついた。
「自分の無能を私のせいにしないで。そもそも、前世で私を金のために刺し殺したのはあんたでしょう。殺しておいて『上手くやってた』なんて、頭が沸いてるの?」
「黙れッ!!」
健太がポケットから何かを取り出した。
鈍く光る、サバイバルナイフ。前世で結衣の腹を裂いたものと、全く同じモデルだった。
教室にいた「大人な生徒たち」が、一斉に悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。前世の記憶があろうと、刃物を振り回す狂人を前にすれば人間の行動は変わらない。
「お前さえ……お前さえ前と同じように俺を愛してれば、こんなことにはならなかったんだ!」
健太がナイフを振り上げ、結衣に向かって突進してくる。
結衣は冷静だった。(またか)と思った。
ただ、十六歳の未発達な女子の身体では、狂乱する男子生徒の突進を躱すことは物理的に不可能だった。彼女は防御のために腕を交差させ、迫り来る激痛を覚悟して目を閉じた。
——しかし、いつまで経ってもナイフは結衣の身体に届かなかった。
「……え?」
目を開けた結衣の視界に飛び込んできたのは、見覚えのある背中だった。
前世の路地裏で、惨めに逃げ去っていったあの男の背中。
「……っ、ぐぅッ!」
くぐもった呻き声。
結衣と健太の間に割って入った湊が、健太のナイフを素手で掴んでいたのだ。
刃が湊の手のひらに深く食い込み、鮮血が床にボタボタと滴り落ちている。
「な、なんだお前は! 邪魔するな!」
健太がパニックに陥り、ナイフを引き抜こうとする。しかし、湊は血まみれの手で刃をさらに強く握りしめ、決して離そうとしなかった。
「……離さない」
湊は、痛みに顔を歪めながらも、低い、地を這うような声で言った。
「もう二度と、この子からは逃げない。……絶対にだ」
湊は空いたほうの腕で健太の顔面を渾身の力で殴りつけた。
鈍い音が響き、健太が白目を剥いて床に崩れ落ちる。ナイフがカラン、と乾いた音を立てて転がった。
教室は水を打ったように静まり返っていた。
湊は肩で息をしながら、血の滴る右手を庇うようにして、ゆっくりと結衣を振り返った。
その顔は脂汗にまみれ、恐怖と激痛で青ざめていたが——その瞳だけは、十六年前の路地裏で見せた怯えを完全に払拭し、真っ直ぐに結衣を見据えていた。
「……ごめん。出しゃばって」
湊は力なく笑おうとして、顔をしかめた。
「でも、俺の『台本』は、ここで君を守ることになってたから」
結衣は、床に広がる湊の血だまりと、彼の真っ直ぐな瞳を交互に見つめたまま、言葉を失っていた。
誰も信じない。誰の助けもいらない。そう固く閉ざしていたはずの彼女の心の氷壁に、ピシリ、と、ごく僅かなひびが入った音がした。
3.未解決の因果
事件の翌日。
湊は手に分厚い包帯を巻かれながらも、普段通りに登校していた。健太は警察に引き渡され(この世界では未成年犯罪の処罰法がすでに大人と同等に引き上げられていたため)、退学処分となった。
放課後。人気のない屋上で、湊は一人、夕暮れの街を見下ろしていた。
高層ビルの建設が不自然なほど急ピッチで進む、歪なスカイライン。これが、人類が二周目で作り上げた世界の姿だった。
「……痛む?」
背後からかけられた声に、湊は弾かれたように振り返った。
屋上の入り口に、結衣が立っていた。彼女から湊に話しかけてきたのは、四歳の時のあの砂場での拒絶以来、実に十二年ぶりのことだった。
「いや……大したことないよ。神経は切れてないって医者も言ってたし」
湊は慌てて包帯の巻かれた手を背中に隠した。
結衣はゆっくりと湊に歩み寄り、彼から少し離れたフェンスに寄りかかった。
夕日が彼女の横顔をオレンジ色に染めている。
「……ありがとう」
その言葉は、風にかき消されそうなほど小さな声だった。
湊は耳を疑った。
「勘違いしないでよね」
結衣は湊の方を見ずに、冷たい声のまま続けた。
「あんたが前世で私を見捨てた事実は消えない。私の人生を最悪な形で終わらせた恨みも、そう簡単に消えるわけじゃない。……でも、昨日は逃げなかった。それだけは、認めてあげる」
湊の胸の奥で、長い間つかえていた重い塊が、少しだけ溶けていくのを感じた。
「……それで十分だ」
湊は夕日に向かって微笑んだ。
「俺は、君に許されたくてやってるわけじゃない。ただ、もう絶対に自分から逃げ出したくないだけなんだ」
結衣は初めて、湊の顔を正面から見つめた。
前世で見た、あの情けなく怯えきった青年の面影は、今の彼には微塵もなかった。
「……ねえ、湊」
結衣が初めて、彼の名前を呼んだ。
「この世界、これからどうなると思う?」
眼下には、誰もが「未来」を知っているがゆえに、誰も新しいことに挑戦しようとしない、奇妙に停滞した都市が広がっていた。皆が失敗を恐れ、前世の成功体験だけをなぞろうと必死にもがいている。
「さあな。でも、一つだけ確かなことがある」
湊は包帯の巻かれた手をフェンスに置き、力強く言った。
「前世の俺たちは、二十八歳と二十五歳で死んだ。俺たちがその年齢を超えた時……人類は初めて、誰も知らない『全く新しい未来』の時間を迎えることになる。俺たちの台本は、そこで白紙になるんだ」
結衣はふっと、自嘲するように笑った。
「白紙の台本なんて、怖くて誰も演じきれないんじゃない?」
「だから、俺たちが最初に創るんだよ。誰も見たことのない結末を」
湊の言葉に、結衣は何も答えなかった。
しかし、彼女の視線はもう、憎悪で曇ってはいなかった。
完全に凍りついていた二人の因果の歯車が、十二年の歳月と流れた血によって、ようやく静かに、未知の未来へ向かって動き始めていた。




