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全人類二周目:あるいは灰色の輪廻を破るために  作者: 臥亜


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第一章:灰色の結末と交差する産声

1.白石結衣(裏切りの果てに)

冷たい雨が、アスファルトを黒く濡らしていた。

肺から空気が漏れるような、ヒュー、ヒューという自分の呼吸音だけが、やけに大きく聞こえる。

「……ごめんな、結衣。お前のことは本当に愛してたんだ」

頭上から降ってきたのは、震えるような、それでいてひどく冷酷な男の声だった。

健太。五年間の交際を経て、来月には籍を入れるはずだった私の恋人。私の腹部には今、彼が両手で握りしめているサバイバルナイフが深々と突き刺さっている。

「会社の金、どうしても埋め合わせなきゃいけなくて……通り魔の仕業ってことにするから。お前にかけられた保険金は、俺が大事に使うよ」

血を吐きながら、私は必死に彼を睨みつけた。

信じていた。誰よりも優しくて、誠実な人だと思っていた。私が彼に向けていた二十五年間という人生のすべてが、ただの「金づる」としての価値しかなかったという事実に、腹の痛みを上回る絶望が全身を駆け巡る。

その時、路地の入り口に人影が見えた。傘をさした、スーツ姿の若い男だった。

(助けて……!)

声にならない悲鳴を上げ、血まみれの手を伸ばす。男と目が合った。しかし、男はナイフを持つ健太の姿を視界に収めると、短い悲鳴を上げ、踵を返して一目散に暗闇の中へと逃げ去っていった。

最後に見たのは、見知らぬ男の逃げ惑う情けない背中と、健太の歪んだ笑顔。

誰も信じられない。誰も助けてくれない。底知れぬ憎悪と孤独の中で、私の意識は暗い底へと沈んでいった。

——はずだった。

(……痛くない?)

気がつくと、私は仰向けで寝かされていた。

刺されたはずの腹を探ろうとして、動悸が激しくなった。腕が、動かない。いや、正確には「頭で思い描いているように筋肉が連動しない」のだ。

目を開ける。視界がひどくぼやけ、色彩が濁っている。

(病院……? 私は助かったの……?)

口を開いて助けを呼ぼうとした。しかし、喉から出たのは「あー」という間抜けな空気の振動だけだった。舌が異常に分厚く感じられ、言葉の形を作れない。

パニックが押し寄せる。ナイフで神経をやられたのか。脳に障害が残ったのか。

不意に、真上から巨大な顔が覗き込んできた。

「……え?」

私は心の中で息を呑んだ。ぼやけた視界の中で、それが「若い頃の父親」だと認識するのに数秒かかった。

(お父さん? なんでそんなに若いの? そもそも、なんでそんなに大きいの?)

自分が死に際に見ている走馬灯か、幻覚だと思った。そうとしか考えられなかった。

しかし、耳に入ってくる音は、あまりにも生々しかった。

周囲から、赤ん坊の泣き声が聞こえる。ここは新生児室なのだろう。

だが、その「泣き声」は明らかに異様だった。

「あー!」とか「おぎゃあ」といった本能的なものではない。まるで、意味のある言葉を無理やり未発達な喉から絞り出そうとして、できずに憤死しそうになっているような、怒りと絶望に満ちたうなり声の合唱。

隣のコット(ベビーベッド)に寝かされている赤ん坊と、不意に目が合った。

その小さな瞳には、無垢な光など微塵もなかった。激しく見開かれたその目は、「ここはどこだ」「なぜ俺はこんな姿になっている」と、明らかな大人の知性を持って訴えかけていた。

さらに、私を見下ろしている父親の様子もおかしい。

彼は新しい命の誕生を喜ぶどころか、顔面を蒼白にし、震える手で自分の頭を抱え込んでいた。

「嘘だろ……なんで俺、会社の倒産で首を吊ったこと……覚えてるんだ……? なんでまた、この借金まみれの時代から……」

父親のうわ言を聞いた瞬間、私の脳内でバラバラだったピースが、強引に、そして最悪な形で一つの絵を結んだ。

走馬灯ではない。

私は「戻って」きている。そして、死んだ記憶を持っているのは私だけではない。この部屋でうめき声を上げている赤ん坊たちも、そして父親も。

狂気じみた現実を前に、私はただ、見知らぬ天井を呆然と見つめることしかできなかった。

2.蒼井湊(逃亡の果てに)

「……っ、あぁ……!」

ベッドから跳ね起きると、全身が汗だくになっていた。

またあの夢だ。路地裏で、腹を刺されて血の海に倒れていた見知らぬ女性。彼女の絶望に満ちた目が、今も脳裏に焼き付いて離れない。

俺があの日、彼女を見捨てて逃げてから三年。翌日のニュースで「二十五歳女性、通り魔に刺され死亡」という報道を見た時、俺の中で何かが完全に壊れた。

二十八歳になった今も、定職につかず酒で記憶を飛ばすだけの日々。

その日も昼間から安い焼酎をあおり、ふらつく足で雨の降る交差点を歩いていた時だった。

けたたましいクラクションが響き、スリップした大型トラックが目の前に迫っていた。

逃げる気力すら湧かなかった。

(ああ、これでようやく……あの目から逃げられる)

全身の骨が砕けるような衝撃と共に、俺の冴えない人生はあっけなく幕を閉じた。

——はずだった。

「……っ、あ……」

猛烈な息苦しさと共に意識が浮上する。

全身が鉛でできているように重い。指先一つ、まともに動かせない。

(助かったのか……? いや、あの衝撃で生きているはずが……脊髄をやられたのか?)

恐怖で心臓が破裂しそうだった。

必死に首を動かすと、見覚えのある木目の天井が目に入った。実家の天井だ。

なぜ実家にいる? 俺は事故に遭ったはずだ。救急車は? 病院は?

「……湊」

頭上から声が降ってきた。

俺が二十歳の時に、ガンで亡くなったはずの母だった。

俺はさらに混乱した。事故のショックで幻覚を見ているのか? それとも、ここは死後の世界なのか?

「あ、う……」

母さん、と呼ぼうとしたが、間抜けな声しか出ない。自分の手が視界の端に入った。

シワだらけの、異常に小さな手。もみじのような赤ん坊の手だった。

わけがわからなかった。頭がおかしくなりそうだった。

俺は赤ん坊の姿をしている。そして、目の前には死んだはずの若い母がいる。

だが、俺をさらに震え上がらせたのは、母の「目」だった。

赤ん坊の俺を見つめる母の目は、決して「これから始まる未来」を祝福するものではなかった。

抗がん剤の副作用に苦しみ、病床でやせ細って死んでいった、あの『晩年の母』の疲労困憊した目をしていたのだ。

「……なんで」

母は、自身の震える両手を見つめ、幽鬼のような声で呟いた。

「なんで私、自分が死んだ後のことまで、全部覚えてるの……? 湊、あなたも……あなたもそうなの?」

母の目から大粒の涙が落ち、俺の小さな頬に当たった。

その生温かい感触が、これが夢でも幻覚でもないことを冷酷に告げていた。

隣の部屋でつけっぱなしになっていたテレビから、不気味なほど裏返ったアナウンサーの声が聞こえてくる。

『きゅ、緊急速報です……っ。現在、各地の病院や家庭から、「あり得ない記憶」を持っているという通報が警察に殺到しており……わ、私自身も、昨夜心筋梗塞で倒れたはずの記憶が……っ、ひっ、誰か、誰か嘘だと言ってくれ!』

放送事故などというレベルではない、狂乱の叫びが電波に乗って響き渡る。

俺はシワだらけの小さな手を握りしめた。

ようやく、俺の鈍い脳髄がこの狂った現実を理解し始めた。

世界は「やり直されて」いる。

それも、全人類が未来の記憶と過去のトラウマを持ったまま。

(待てよ……全員が記憶を持っているなら……)

背筋に氷柱をねじ込まれたような悪寒が走った。

あの路地裏で俺が見捨てた女性も——間違いなく、俺への強烈な恨みを抱いたまま、この狂った世界のどこかで目覚めているはずだ。


3.交差する轍(四年後)

世界が「二周目」に突入してから、四年という月日が流れた。

社会は、かつての歴史とは似て非なる、異様で歪な変貌を遂げていた。

四年前に大人だった者たちは「次の展開」を知っているがゆえに、こぞって株価を操作しようとし、結果として未曾有の経済崩壊を引き起こした。四年前に子供だった私たち「記憶持ちの新生児」は、言葉を話せるようになると同時に、未発達な脳と大人の自我というアンバランスさに苦しみながら、異様なコミュニティを形成し始めていた。

とある幼稚園の砂場。

本来であれば、無邪気な子供たちが泥にまみれて歓声を上げているはずの場所だ。しかし、今の世界における幼稚園は、異様な静けさと陰鬱な空気に包まれていた。

園児の皮を被った大人たちは、滑り台の下で前世の職場の愚痴をこぼし合い、ジャングルジムの上で仮想通貨の暴落について深刻な顔で議論している。

結衣は一人、砂場の端に座って冷たい目でその光景を眺めていた。

「結衣ちゃん、お砂で山、作らないの?」

背後からかけられた声に、結衣は全身の毛穴が開くような強烈な悪寒を感じた。

振り返ると、プラスチックのスコップを持った男の子が立っている。健太だ。前世で結衣の腹にナイフを突き立てた、元恋人。

「……近づかないで」

結衣は四歳児の短い舌で、精一杯の冷たい声を出した。

「前と同じように振る舞えば、私が誤魔化されるとでも思ってるの?」

健太のふっくらとした幼児の頬から、さぁっと血の気が引くのが分かった。スコップが乾いた音を立てて砂に落ちる。彼は前世の罪悪感と、いつか結衣に復讐されるかもしれないという恐怖に怯えながら、それでも「今度こそやり直せるかもしれない」という身勝手で甘い期待を抱いて近づいてきたのだろう。

「私はもう、誰の台本通りにも生きない。あんたの顔は二度と見たくない」

結衣は彼を一瞥もせずに冷酷に言い放ち、砂場から立ち上がった。

その時だった。

幼稚園のフェンスの向こう側から、一人の男の子が砂場をじっと見つめているのに気がついた。

凑だ。

彼はこの四年間、前世の乏しい記憶と四歳児の不自由な身体を酷使し、自分が住んでいた街の周辺をひたすら探し回っていた。「通り魔事件」が起きた現場付近の家や施設を片っ端から調べ、あの夜、自分が見捨てた女性を探していたのだ。

フェンス越しに立つ湊の視線が、砂場から立ち上がった結衣の横顔に釘付けになる。

(……あの目は)

前世のトラウマとして湊の脳裏に焼き付いて離れなかった、絶望と怒りに満ちた冷たい瞳。四歳児の丸みを帯びた輪郭の中に、路地裏で血の海に倒れていたあの女性の面影が、はっきりと重なった。

湊は無意識のうちに金網を強く握りしめ、結衣のほうへと一歩足を踏み出した。

その気配に気づいた結衣が、ゆっくりとこちらを振り向く。

男に裏切られ、孤独に生きることを決めた女。

女を見捨てて逃げ出し、罪悪感から人生をやり直そうとする男。

「……あ」

結衣の目が大きく見開かれた。

彼女もまた、直感したのだ。フェンス越しに立ち、まるで幽霊でも見るかのように蒼白な顔でこちらを見つめている同い年の少年。その目に浮かぶ、異様なまでの「罪悪感」と「後悔」。

間違いない。こいつは、前世の最期の瞬間に自分と目が合いながら、怯えて逃げ去ったあの忌まわしい男だ。

決して交わるはずのなかった二人の因果が、狂った二周目の世界で、今、完全に重なり合った。

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