2-11.見てた。
その夜。夕食のあと、山は一気に静かになった。
炊事場の火は落とされ、残るのは虫の声と、遠くの水の音だけ。
「ソフィア・テレーゼ」
呼ばれて、私は教官テントの前で立ち止まった。
布越しに中のランタンの灯りが、ゆっくり揺れている。
「入れ」
ディーンだった。
テントをくぐると、中には彼ともう二人いた。医務の先生と、昼間、霧の崖で落ちかけた子。
たぶん、健康確認? だと思う。
でも、ちょうど終わったところだったらしい。ぺこりとお辞儀して出ていった背中を見送って、私は先生たちに向き直った。
「……私は大丈夫なんですけど……」
言いかける。けれど、机の前に座ったディーンはそれには答えず、顎で、空いた丸椅子を示した。
少し迷った後、会釈して座る。
しばらく、先生は何も言わなかった。
ただ、視線が一度、私の靴先から肩までをなぞってから、手背の擦り傷で止まった。
その目が細くなるのを見てしまう。
(怒られる?)
ほんの一瞬、そんな考えがよぎって、胸がすくんだ。
「昼の件だが」
それだけで、背筋が伸びる。
けれど、そのあとに続いた——
「よくやった」
その一言で、目を瞬いた。
「え」
「目の前で同級生が落ちかけて。自分の足場も悪かっただろう。恐怖で固まってもおかしくない場面で、よく的確に判断した」
声はクールだった。表情も変わらない。
ただ、机の上の錬膏の小缶を取り、手前に置いて渡す。
「手を離さなかった。無茶をしなかった。——それで十分だ。」
「っ……」
「塗って、今日のうちに沁みさせるように」
「は、い」
「以上だ」
それだけで終わる。
本当にそれきり。
「診てもらったら、すぐに戻れ」
「……わかりました」
それから、少しの時間、医務の先生と話して傷を見てもらう。
その間に、ディーンは、巡回ランタンを一つと風避けの結界札を持って、さっさとテントを出て行った。
「——硬いわよねえ。もう少し優しく言ってもいいのに」
医務の先生が柔らかく笑った。ディーンより少し年上、だけど若い先生だ。馬鹿にしたようでも呆れたふうでもなく、ただ事実を置くように。
「でも、ちゃんと生徒のことは見てる人だから。あれで責任感じてたのよ。今夜はたぶん寝ずの番のつもりね」
「……」
ぎゅっと胸が締まる。先生は軟膏を塗り終えて、ぽん、とわたしの手を軽く叩く。
「はい、おわり。冷やしちゃだめよ」
「ありがとうございました」
テントを出ると、空気はひんやりしていた。水色だった空が藍色になって星が増えている。
胸の奥には、緊張とは違う、でも確かな重さが残っていた。
——ちょうど手の缶と同じ重さ分。
それと同時に。
(……褒められた、のね、私)
足元がほんの少しだけ浮いた気がして、慌てて缶を握り直した。
寝るためのテントへ戻ろうと踵を返す。
炊事場の脇のテーブルから人影が立ち上がって、小道の暗がりをこちらにやってくるのが見えた。
じゃり、と足音が地面を踏む音の後に、ほんの少し驚いたような声。
「む、ソフィアか」
アレスだった。手に板とペン。今日使った調味料や米の袋と薪の数を書いた紙が挟まっている。片付けが終わった頃くらいから、何か書き込み始めたなとは思っていたけど。
「記録してくれてたの?」
「使った分と残りだ。今しておかないと後で面倒になるだろ」
——俺様の口調で言う内容じゃない。
思わず、じっと見てしまう。
「なんだ」
「いえ……真面目だな、って」
一瞬、眉が寄る。
「当たり前だ。足りなくなれば困る」
それだけ言って、歩き出す。自然と横に並ぶ形になっていた。
少し沈黙。
「……昼」
アレスが、ふっと言った。
「ロープ、離さなかったな」
「うん……良かった、離さなくて」
「それはそうだ」
それ以上は何も言わない。しばらく、足音だけが続いた。
私は一度だけ、深く息を吸った。
「……そういえば一年の時」
ふと思い出していた。
「いろいろ言いながらも、魔法、教えてくれたよね。あれ、どうしてだったの?」
アレスはまたわずかに眉を上げかけた。
けれど、すぐ前を見て、言う。
「——あの時も言っただろうが。放っておけなかったからだ」
短く、それだけ。けれど、そのあとほんの少しだけ声の温度が変わる。
「潜在能力は傍目にも分かるのに、いざって時に上手く出せない。あれは周りからの圧も相当高くなるだろう。目には見えんが、息が詰まる。——俺は経験はないがな」
言いながら、ふと視線が女子テントの方へ向いた。焚き火の明かりが布の端を透かして揺れる。
(……ローゼリアのこと、なのかもしれない)
詳しい事情は知らない。でも、胸の奥で何かがハマった。
それと同時に、ほんの少しだけ頬が熱くなる。
あの頃、私の力で彼を“攻略”し始めたと思っていた。それが最初から違ってたんだと気づいて。
(自惚れてたなあ)
自嘲めいた息が漏れ、足元の小石をちょんと蹴る。心の中で自分をなだめたところで、アレスがふっと笑う。
「それとな、貴様」
「はい?」
「あの頃、夜中に隠れて一人で鍛錬してただろう。あれも危なっかしかった。というか、校則違反だしな」
「えっ、なんでそれを……」
ぽかんとする私に、アレスは呆れた目を向けてきた。
「……バレてないつもりかもしれんが、男子寮の近くだったからな。夜の踏み石は音が立つ。なんならエルヴィスもフィンも見ていたぞ」
「うっそ……」
アレスは小さく笑った。
「ま、そういうことだ。明日は倒れるな」
軽く片手を上げ、暗がりの向こうへ歩いていく。
その背を、落ち着かない気持ちで見送る。
(最初から、見られていた。“ソフィア”じゃない“私”が)
頭の中で、前に言われたリックの言葉が浮かぶ。「わかっているやつはいる」「だから腐るな」——本当にそうだったのかもしれない。ずっと本当は攻略なんてできていなくて。それでも、嫌われていない自分がいたのかも。
ぎゅっと胸の前で両手を結ぶ。指先に軟膏の薬草の香りがわずかに残っていた。
次回【サーチェスイベント〜アンside〜】




