8-7.或る少女の死/篠崎 寧々
その日、勇吾くんは学校を休んだ。
ここのところ彼は、時々ぼんやりと考え込むようなことが増えた。
勇吾くんの家に行って柴田さんと鉢合わせた時、2人の間にはただならぬ雰囲気が漂っていた。
恋が戦争だとするなら、やはり私の最大の敵は彼女だと思った。
彼女のピアノの音には、肌が粟立つほど冷たく深い情念があって、勇吾くんの首筋には、彼女の香水の残り香があった。
勇吾くんは、さらりと浮気をするようなタイプの人ではない。
他人が聞けば、好きな人を盲目的に信じ込んでいるとか、勝手に理解したつもりになっているとか、色々言うかもしれないが、これは単なる綺麗事とは別のところで、そういう器用なことのできる人ではないと思う。
私が乗り込んだ時の彼は、何というか、急な出来事に驚いてもいたし、2人の間に起きたことの全てを説明するつもりはないようでもあったけれど、それ以上の後ろめたさは感じられなかった。
そして、彼は私の家族に堂々と会い、理路整然と、ピアノについて、音楽についてを私と私の家族に教えた。
どれも根拠と呼ぶには感覚的で、説得力に乏しいけれども、私にとっては彼を信じるのに十分なことだった。
そして、戦いの決意を固めることにも。
あの美しいピアニストと勇吾くんを巡る戦いに臨む一方、この週末には、団体戦Aチームの枠を争う『下剋上戦』を控えている。
この二正面戦争を勝ち抜いて、私は欲しいものを全て手に入れる。
そのために何をすればいいのかは、あやふやなままだったが、足を止めているわけにはいかなかった。
まず私は、今知らない色々なことを、知らなければならない。
✳︎
屋上へ通じる鉄の扉を開けると、風に乗ってタバコの匂いがした。
「よう、珍しいな」阿久津さんは言った。
私はその指先に挟んだタバコを指して顔をしかめた。
「それ……バレないんですか?」
「まぁ、暗黙の了解ってヤツだろ。学校にとっちゃ不登校ってのも体裁が悪いし、来るにしても揉め事起こすくらいなら、屋上でタバコでも吸っててもらった方が有難いって、教員の連中も割り切ってんのさ」
阿久津さんはそう言って笑うと、用件を尋ねた。
「もうすぐ来ると思うので……」と言うと、丁度屋上の扉が再び開いた。
そこから顔を覗かせた天野 ミゲルは、私と阿久津さんの顔を交互に見比べ、「え……何?」と戸惑う様子で眉間にシワを寄せた。
「ごめんねミゲルくん。こっちから呼び出しておいて」と私は詫びた。
「俺、ハメられてる?」何が起こっているのか分からないというふうに、天野は辺りを見回した。
「ううん。そういうんじゃないの。ただ、仮にあなたが勇吾くんと敵対して、そのやり方が私の価値観と著しく隔たりがあるような場合、私はあなたを傷つけるかもしれない。だから、その時は阿久津さんに止めてもらおうと思って……」
「俺は何の説明も受けてねえけどな」
阿久津さんが呆れたように言った。
「ごめんなさい。でもそれだけの実力があって、どのしがらみにも無関係、口が固くて融通が利く、そういう人は、私の知る限り阿久津さんしかいなくて……」
「だからコイツにブチ切れたら俺に止めさせようって? 薄々気付いてたけど、お前勇吾よりよっぽどイカレてんな」
「勇吾くんはイカレてなんかない!」
私は声を張り上げた。
「そうか。じゃあイカレてんのはお前だけだわ」
あれ……? と、私はたじろいだ。
「私だって……平和的解決を目指す手段として……」
「お前アレだな、『銃の乱射事件が起きたのは、警備員が銃を持っていなかったからだ』ってタイプだ」
「いえ……決してそんなことは……」
そのやり取りを見ていた天野が、「あのぉ……」と遠慮がちに口を挟んだ。
「俺に用があったんじゃ……?」
「そう! そうなの! ごめんね!」
私は蚊帳の外にしてしまった天野に慌てて詫びた。
阿久津さんは新しいタバコに火をつけて、「見ててやるから本題に入れ」と言って屋上の柵に背中を預けた。
えーと……とつっかえながら、私は話し始めた。言うことはあらかじめ考えていたのに、スムーズに言葉が出てこなかった。
「勇吾くんとの共演についてだけど、その……結論から言えば、私は協力出来ない。
勇吾くんがワルシャワに行ってしまうまで、私たちに残された時間はとても少ないの」
「残された2人の時間を大事にしたい、そういうことかな?」
天野は中立的な態度で言った。
「彼は今まで【消えた神童】だった。
彼の価値を知る数少ないお客さんだけを相手にして、世間にはほとんど知られていない【幻のピアニスト】で、だから彼はある程度自由でいられた。
私は彼がコンクールで勝つって信じてる。でもそうなると、彼を取り巻く環境は一変すると思う。
彼はもう、世界中から求められるピアニストになる。そうなった時……」
私は言葉を詰まらせた。
「そうなった時?」
天野は首を傾げて続く言葉を促す。
声が震えた。
「私には……彼が、本当に帰って来てくれるか、確信が持てない」
不意に、じゅっ、と音がして、見れば阿久津さんが空き缶にタバコの吸殻を放り込んでいた。
「簡単な話だ。奴をブチのめして、そもそもコンクールになんざ行かせなけりゃいい」
「そんなこと、出来るわけないでしょう!」と噛み付いてから、私は阿久津さんに小さく詫びた。勝手に巻き込んでおいて、失礼だった。
「いやせめて説得するとか……」
天野がそう言うと、阿久津さんは鼻で笑った。
「お前、アイツのこと知らねえな。説得に応じるようなタマじゃねえんだよ」
天野は目を細めて、少し考え込むようにしてから、言った。
「分からないな。それで一体、俺に何をして欲しい? 呉島と俺を会わせてくれるわけでもなく」
「私は彼との間に残された時間を、ただ消費するだけじゃダメ。そこから何かを生み出さなきゃいけない。彼がここに帰って来る理由になるほどの何かを。
だから、ピアニストのあなたに教えて欲しいの。勇吾くん以外のピアニストにとって、呉島 勇吾とは何なのか」
そのことがきっと、柴田 真樹を攻略し、勇吾くんを引き留める鍵になる。
「見返りは?」と天野は聞いた。普段の明るい態度が嘘みたいな、冷たい声だった。
「私があなたと勇吾くんを取り持つことは出来ない。でも、彼が必ず応じるアプローチを1つだけ知ってる」
「なるほどね……」
口元に薄笑いを浮かべる天野に、私は言った。
「彼は敵意に敏感な人だよ。あなたのそれは、きっと伝わる」
天野は空を見上げて、ため息をついた。
「音楽っていうのにはさ、魔力があるんだよ」
それから私を見据えて、話し始めた。
天野 ミゲルの父親は、世間の平均的な水準から見れば、かなりのお金持ちだった。
身の回りには質の良いものを置いたし、自分や子どもに素晴らしい体験をさせることに、お金を惜しまなかった。その中でも、生の音楽を聴くという体験を、彼の父はかなり上位に置いていた。
けれども、そういう彼の父親も、呉島 勇吾の演奏を直接聴いたのは一度きりだったという。
父親は仕事でフィンランドのヘルシンキに訪れた時、そこで彼よりさらに上の階層の人たちが催したサロンの演奏会に招かれた。
演奏家は当時10歳の呉島 勇吾、ただ一人だった。
「俺の父親は子煩悩というより親バカに近かったけど、現実主義者でもあった。だから、帰って来るなり俺にこう言ったよ。
『ピアノで食べていくのは諦めなさい。その世界には呉島 勇吾がいる』
信じられる? もっとあるでしょ言うべきことが。『彼に負けないように頑張れ』とか、『お前はお前の音楽をしろ』とか。でも、俺はまだマシな方だ」
その頃、小学4年生の天野には、好きな女の子がいた。同じピアノ教室に通う6年生のお姉さんだ。
彼女はそのピアノ教室の中では一番上手で、優しいピアノを弾いたし、天野のことを可愛がってくれた。しかし、その演奏会からちょうど一年後に亡くなった。
自殺だった。
「挫折したピアニストって、案外そこら辺にいるんだよ。音大卒業者のほとんどがプロを断念するわけだから。彼女の母も、そんな演奏家崩れの一人だった。不幸だったのは、ヘルシンキが羽田から直行で行けたことだ。きっかけはそれだけだった。
そこで奴の演奏を聴いた母親は、彼女を、呉島 勇吾にしようとした」
「そんな……」
それきり、続く言葉を見つけられなかった。
血の気がひくというのは、こういう感覚なのかと思った。
「変な話だけど、俺がピアノを続けていられるのは、父親が俺を諦めてくれたからだ。
亡くなる前の彼女の顔を、俺は忘れられない。彼女、笑ったんだ。『もう、ピアノを弾かなくていいの』って」
「なるほどな」阿久津さんは長い髪をかき上げた。「アイツはそういう怨念を、一身に背負ってるわけだ」
私は自分の底の浅さを恥じた。勇吾くんはかつて、自分がピアニストの柴田さんを『殺した』と言った。私はその時、それが比喩的な表現だということに、胸を撫で下ろしただけだった。
どうしてこんな簡単なことが、想像できなかったのだろう。
人生の大半を費やし、全てを捧げて突き進んだ、その道の先には、何もなかった。そんな時、人が自ら命を断つのは、むしろ自然なことではないのか?
そればかりか、呉島 勇吾の一種病的とさえ言えるその才能は、ある母親に狂気を植え付けた。
「呉島が悪いわけじゃない。それは分かるよ。奴はただ、ピアノを弾いただけだ。でも、彼女は死んだ」
天野は言った。
そしてそれはきっと、彼女だけではない。
「で? お前は何だって、その憎き呉島 勇吾と共演なんざしようと思ったんだ?」
「俺はまだ、諦めてないからだ。アイツとは違う音楽との関わり方がある。それを世界中に示したい。だから、彼女のピアノにも価値があったはずだって。俺は、そのために生きてる」
「分かった」私はそう言ってうなずいた。
「真正面から勝負して。彼を動かす方法はそれだけ」