8-6.夢/呉島 勇吾
朝、目が覚めた、と思った時、壁掛け時計の示す時刻は12時を回ったところで、俺はそれが昼にしろ夜中にしろ、少なくとも朝ではないと知ることになった。
地下のフロアは、ピアノを弾いても苦情が来ないので重宝するが、昼夜の感覚が鈍くなっていけない。
スマホの時計で改めて時刻を確認する。昼だ。
この日は掛け値なしのド平日で、当然のように学校があるはずだったが、ここまでくれば逆に慌てることもなかった。
真樹のピアノを聴いて以来、俺とアイツの関係は妙な感じだった。
あれだけのピアノを弾く女が、ピアノ弾きを名乗らずマネージャーに甘んじていることも気に食わなかったが、それ以上に、彼女がゴリゴリに迫って来たこと、そのリアクションに窮していた。
真樹はあれ以来、俺に詫びるでもなければ、さらに距離を詰めて来るでもなく、ただ淡々と、朝、家に来て俺を学校へ送り、帰りは俺を家に届けて去って行く。
車の中では業務上の連絡を二、三、ポツリポツリと喋る程度、世間話はおろか愚痴も暴言も吐くことはなく、静かで結構と言えば、まあそうとも言えるが、とにかく居心地の悪い思いをしているうちに9月に入っていた。
そしてとうとう、この日、真樹は朝俺を迎えに来ることさえやめた。
さて、どうしたものかと頭を掻きながら、冷蔵庫を開け、飲むヨーグルトをコップに注いで一口にあおった。
冷たさが食道を通って胃の底まで、もったりと流れていく。
それからまず寧々に「今日は学校を休む」と連絡を入れた。
昼休みまではもう少々時間がある。返信を待たずにピアノに向かって、鍵盤の上に指を這わせると、ごく繊細なタッチで、しかし打鍵が浅くならないように、素早く指を動かした。
モーリス・ラヴェル『夜のガスパール』より第1曲「オンディーヌ」
やはり、俺の方が上手い。音質も音量も均一だし、打鍵も深い。
しかし、真樹の弾いたあの言いようのない冷たさ、あれが出ない。
その後、第2曲の『絞首台』、第3曲の『スカルボ』も続けて弾いたが、いまいち乗りきれなかった。
もしかして俺は、表現の幅が広がったと思っていただけで、実は向いている方向が変わっただけなのだろうか?
「これはあんまり、良くねえ感じだな……」
誰もいない部屋で一人そう呟いた時、寧々から返信があった。
「どうしたの? 大丈夫?」
「完膚なきまでに寝坊した。
もうこの際、今日はピアノ弾いて1日過ごす」
そう返すと、今度は着信が鳴った。俺は寧々からだと思ってうっかり反射的に通話ボタンを押したが、許しがたいことに事務所の社長だった。
「やあ、勇吾。今日の夜、暇かい? 今こちらに来てるんだが」
俺は少し考えてから答えた。
「ついさっき起きたんで、開き直って学校を休んだ。今からでもいい。真樹の件か?」
「いや、彼女はもう大人だ。自分のことは自分で決めるさ」
「何があったか知ってんのか?」
「まあ、大方のところはね。真樹ちゃんのことは真樹ちゃんと話すよ。君と話すからには君の話さ」
「ああ、丁度、俺もアンタに用があった」
社長がいるのは中央区のホテルだった。
その1階の喫茶店で待ち合わせということにすると、俺はジャケットを引っ掴んで外に出た。
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「夏休み以来だね。どうだい? コンクールへの自信のほどは」
中央区の高級ホテル、その1階にある喫茶店で、社長はコーヒーをすすりながら横を向いたと思うと、常から外を向いている斜視の右眼を、俺に向けた。
「今、ここが会場になったと言われても、俺は当然のように弾き、当然のように勝つ」
革靴のかかとに絨毯の感触を確かめながら、俺は答えた。
「なるほど……」
社長はソーサーにカップを置いて、身を乗り出した。
「以前、それほど君はショパン・コンクールに乗り気ではなかったし、そこまでの自信を持ってはいなかったように思うが」
「白々しいぜ」と顔をしかめる。
「『ショパンを弾く』ということ自体は、俺にとって造作もねえことだ。ヤマハだろうがスタインウェイだろうがファツィオリだろうが、どのピアノを持ってこられても、俺が誰よりも良い音で鳴らしてやるよ。
だが、それで他人の心を動かすという面で、俺は負ける可能性があった。以前はな」
「今はそうではない。剣道少女と出会ったからかい?」
俺は椅子の背もたれに体重を預けて脚を組み、社長の顔を正面から見据えた。
「これだけは言っておく。『アイツに関わるな』
アンタが俺をどう売り込もうと、例えば俺の過去や境遇を切り売りするようなマネも、大概のことには目を瞑ってやる。
だが、アイツやその家族にアンタがちょっかいを出した時、俺はアンタを殺すぜ。
これは脅しでもなければ、スラムの路地裏でガキどもが使う挨拶でもねえ。予定だよ。
『雨が降ったら傘を持って行く』その程度の話だ。真樹にもそう伝えろ」
社長はそれを聞くと、口元に含み笑いを見せた。
「録音を聴いたよ。君、音が豊かになったよね。表現の幅が広がったし、歌い方にも艶が出た」
「はっきり言えよ。おべんちゃらが言いてえわけじゃねえんだろ?」と俺は顔をしかめる。
社長はコーヒーを一口すすって、それから言った。
「退屈だよ。君は上手いだけの、普通のピアニストになった」
「あぁ?」
ビール瓶でもあれば、俺はこの男の脳天を叩き割ってやれたのに、テーブルには残念なことに、コーヒーカップとオレンジジュースのグラスの他には、シュガーポットとスプーンくらいのものしかなかった。
社長の言葉は真樹の指摘にも近いもので、俺自身にも実際その自覚があった。
「君が思っているほど、君は完成していないということだよ勇吾。ショパンに限らず、あらゆる曲を今弾けるという並外れたテクニックと膨大なレパートリー、そういう途方もなく大きな器に、君は今、素敵なものだけを詰め込もうとしている」
「聴衆や審査員は、それを求めてるんじゃねえのか?」
「浅いよ勇吾。恐怖や悲しみ、怒りといった負の感情が、どれだけの芸術作品を生み出したと思う。
正確無比な演奏の端々から滲み出るように香る憎悪、君自身、そういうものでこれまで多くの音楽家を恐れさせ、多くの聴衆を惹きつけてきた。だがそれだけではいけない。だから我々は君に、素敵なものを探しに行かせたのさ。
しかし難しいものだね。君はそこで、あまりに眩まばゆい宝物を見つけ、それに目を眩ませてしまった。それとも、振り向けばそこにある醜いものを見ることが、もう嫌になってしまったのかな?」
俺はゆっくりと、大きく息を吸い込んだ。
「俺のピアノが下らねえと?」
「そうとまでは言わないさ。選ばれたピアノ弾きにしか弾けないような難曲を、誰も追いつけないような速さで弾く。それだけでも価値はある。アスリートとしてはね。
優しいメロディに綺麗なものを詰め込んだ演奏も、聴衆を涙させるだろう。価値はあるよ。だがそんなことは、みんなやっている」
「だったらアンタは、俺に何をさせてぇんだよ」
俺は低く唸るような声で言った。
「君は、僕が思っていたよりずっと早く、大きく変わりつつある。そしてその変化には実際、我々にとって都合の良い要素も含まれていた。例えば、人と敬語で話せるようになったりね。今の君なら、メディアに出してもそう心配はないだろう」
「だがその一方で、俺は社会に適合する形に均質化されてしまった?」
「それは自分を評価しすぎだよ」と社長は笑った。「まだまだ君は世間知らずの悪ガキだ」
「なら何だってんだよ」
俺は声に苛立ちを込めた。
社長は不意に真剣な面差しで、俺の目を射抜くように見つめた。
「君にしか出来ない音楽を弾け、勇吾。君という人間の全てを詰め込むんだ。そのために必要ならば、僕は剣士ちゃんにも接触するよ。それで君が僕を殺すなら本望だ。
ショパン国際なんて、いちコンクールの勝ち負けの話をしてるんじゃない。君を、世界で唯一無二のピアニストにする。僕はそのために命を懸ける」
「要らねえよ、アンタの命なんざ」
「自惚れるな。君のためなんかじゃない。僕が、僕自身の人生のためにすることだ。
君の中にあるもの全てがその指先から音楽に乗った時、君は『ヴィルトゥオーゾ』という別の生き物になる。その言葉は、もう他の誰にも名乗ることのできない、怪物の名前になるんだ。僕はそれが見たいんだよ」
「アンタも、自分に叶えられなかった夢を、俺に背負わそうってのか?」
「勇吾、それはね、全ての天才が課せられた宿命だ。君が積み上げた屍の数だけ、君は彼らの怨念を背負うことになる。しかしその怨念の正体はね、彼らの夢だよ」
「その屍の中には、真樹もいるのか?」
「それは彼女だけが知っている」
「アンタ、いつかこうなることが分かってたんじゃねえのか?」
「そうあって欲しいという、願いだよ。だから私は、彼女を雇った」
「いつかピアニストとして再起することを見越して……」
「どちらにしても惜しいよ。何せ彼女の商売人としての才能は、音楽業界全部を見通しても指折りだと僕は思ってる」
「そんな営業マンを、手放していいのかよ」
「一度は夢を見た人間なら、みんなそうするさ。そしてこれこそが、私の新しい夢だ。
【悪魔の天才】呉島 勇吾が、数々のピアニストたちを淘汰する。しかしその敗北から立ち上がった人たちが、また別の地平で花を咲かせるのさ」
俺はオレンジジュースを飲み干して椅子を立った。
「下らねえ。俺は俺のためにピアノを弾く。いいか。俺の用件は1つだ。
俺は、俺が行きたい所へ行き、俺が欲しいものを手に入れる。
真樹にも言っとけ。アンタもそうしろって。
それと、来ねえなら来ねえで連絡しろってな。お陰で学校に行きそびれた」
「勇吾……」
背を向けた俺に社長は声をかけた。「寝坊を人のせいにしちゃいけない」
俺はフンッと鼻を鳴らして、ホテルを後にした。
クソ。一理ある。





