8-5.オンディーヌ/篠崎 寧々
ゾッとするほど美しい音楽だった。
この柴田 真樹という人は、紛れもなくピアニストだ。
私はそのことを、焼きゴテを押しつけるように理解させられた。
水滴の煌めきみたいに高い音の鍵盤を細かく刻んでいく彼女の指の動きに合わせて、長い髪が止めどなく揺れた。
私は彼女に釘付けになりながら、その美しさが恐ろしくて、勇吾くんの手を探した。彼が私の指を握ってくれなかったとしたら、逃げ去ってしまいそうだった。
彼の手の温かさが、また一層彼女の音楽の冷たさを引き立たせるように思えた。
彼女の音楽は、勇吾くんとは全く反対の方を向いている。私はそう思った。
勇吾くんの音楽が、音量を増すにつれて触れられないほど熱く燃え上がっていくのに比べて、彼女のピアノは不思議なことに、音が大きくなればなるほど、速度や密度を増していくほど、凍てつくように冷たくなっていくのだ。
細かく動き続けていた指がその動きを極端に遅くして、ゆっくりとした捉え所のないメロディを弾くと、彼女は目を見開いて声を出さずに笑った。次の瞬間、急激に音量が増すと、肌に痛いほどの冷気を感じて私は思わず身震いした。
しかしそれは束の間のことで、音楽はまた細かい音符を煌めかせながら静まり返っていく。狂気じみた笑いはいつの間にか失せ、虚空を見つめていた柴田さんはゆっくりと目をつむった。
長いまつ毛に、小さな雫が光った。それが汗なのか、涙なのか、私には分からなかった。
急に現実の時間が動き出すように、柴田さんはその場に立った。
それから足早に、低い段になったステージを降り、ソファに掛けてあった薄手のコートとブランドもののバッグをひったくるように掴んで、勇吾くんの隣を抜けて行くその一瞬、小さな声で囁いた。
「『湖の王』になってよ、勇吾。アンタなら、分かるだろ?」
それは勇吾くんの耳に囁きながらも、私に向けているように聞こえた。
2人だけに通じる世界がある。だから引っ込んでいろ、と。
「柴田さん!」
私は彼女を呼び止めた。
「ああ、篠崎さん。今日は失礼しました。もう少し、分かり易い曲をご用意出来れば良かったのですが、生憎呉島と違って、そうレパートリーが広くはありませんので」
音楽の分かる者にしか、彼の隣にいる資格はない。そう言っているのだと気付いた。
私はそうは思わない。でも、そのことを訴えるのに十分な言葉が見つけられなかった。
「勇吾くんを、遠くへ連れて行かないで……」
声が震えてしまって、私はギュッと口を結んだ。
「大丈夫だ。俺は帰ってくる」と勇吾くんは言った。
今まで目を逸らしていたことに、直面する時が来てしまったのだと思った。
マネージャーの柴田さんは、そのことに気付いた。目を細める彼女の表情が、それを物語っていた。
「呉島は、パリ国立高等音楽院の第2課程を修了しています。これは学位で言うと『修士』つまり『大学院卒』にあたります。分かりますか? ウチの呉島には、日本の高校を卒業する必要などないのです」
足下に、ぽっかり穴が空いたように思った。
そもそも、彼はなぜ、日本の、しかも普通科高校などに通わされることになったのか。そして、その目的はいつ果たされ、目的を果たした彼はどこへ行ってしまうのか。
私はずっと、その疑問を頭から締め出していたのだ。
勇吾くんは、帰って来ると言った。
しかし彼には、彼自身の行く先を決める権利が与えられているのだろうか。
それは大人が勝手に決めてしまうことではないのだろうか?
多くの子どもがそうであるように。
「それは、勇吾くん本人が決めることでは?」
辛うじてそう言った。それが精一杯だった。
柴田さんは、今にも声をあげて笑い出すのを堪えるような顔で、口を開いた。
「後日、ゆっくりお話しましょう。呉島とは、また改めて今後の方針について詰めることにします。その後にでも」
勇吾くんが何か言おうとしたが、彼女はそれに見向きもせずに出て行った。扉が閉まる瞬間、ちらりと見えた彼女の横顔に、まつ毛の上に乗っていた雫が一粒落ちたように見えた。
一瞬のことで、私にはそれが本当のことだったのか、自信が持てなかった。
「寧々、大丈夫だ。俺は必ず帰ってくる」
扉が閉まった時、勇吾くんは念を押すように、再び私にそう言った。
それは自分の決意を告げるようでもあり、優しい嘘のようでもあった。
「うん。信じてる」
私は彼の心をこの場所に縫い付けるようにそう答えて、ゆっくりと彼の首に腕を回した。
私は彼を抱きしめたまま、離れることが出来なかった。
彼の肩に顎を乗せた時、香水の匂いがかすかに私の鼻腔に触れて、灼けつくような嫉妬と疑惑に歪んだ顔を、見られまいと思ったから。
✳︎
チャイムが鳴って、お父さんを先頭に私の家族が来た時も、私はそれを出迎える勇吾くんの手を握って放さなかった。
お父さんは複雑な表情をしながらも、勇吾くんにお礼を言って、手土産のお菓子を渡した。
恐縮して頭を下げる勇吾くんは、私の家族といる時にしか見られない、彼の貴重な姿だけど、きっとこれも、彼が元々持っていた部分なのだと思った。
「それでは、早速ですが……」と前置きして、勇吾くんは一冊の本をどこからともなく持ち出してきた。A4サイズより少し大きい、厚さ1センチくらいの本だったが、勇吾くんが持ち出してくるからには楽譜だろう。
えんじ色の表紙には、銀色の線がのたうつように筆記体のサインみたいなものがあって、その下に活字が打ち込まれていた。
J.S.BACH
Inventionen unt Sinfonien
(2-unt 3-stimmige Inventionen)
「バッハの『インヴェンションとシンフォニア』
色々と考えたんですが、まずはこれを練習してもらうのが良いかなって」
「楽譜、用意してくれたの?」と私は驚いて尋ねた。いつの間に?
「いや、これは元々俺が持ってたヤツ」と彼は答えた。「音楽をやる人間なら、多分誰の家に行っても本棚か押し入れの奥にはある」
「『西洋音楽の父』ですね。やはり、基本はバッハですか」と私の父が言った。
これは長くなるぞ、と覚悟した。お父さんは、好奇心の旺盛な人で、一度何かにハマってしまうと、まるで小さな子どものように、「ねえねえ、これ何? これはどうして?」が止まらなくなる。そういう人なのだ。
そして多分勇吾くんには、それに答えるのに十分な知識がある。
「バッハの時代の音楽家っていうのは、サラリーマンなんです。
貴族だとか教会だとかに雇われて、給料をもらって曲を書くっていう。
中でもバッハはオペラ以外のほとんどの分野で、残っているだけで1000曲以上の曲を書いていて、ある時期は週一で1曲上げていたそうですから、卵が先か鶏が先か分かりませんが、彼の作曲法はシステマチックでした。量産するための仕組みが出来上がっていたんです。
だから後世の音楽家が作曲の勉強をするのに持ってこいなんですね」
そう言うと、勇吾くんは楽譜をめくり、その中の1曲目を開いて、音符の作る形を見るように言った。
「最初、『ドレミファレミドソ』と弾くと、左手がそれを追いかけて『ドレミファレミドソ』とやります。その先、『ラソファミソファラソ』の形を見てください。最初にやったことの逆さでしょ? この時、左手は音の長さを倍にして、最初のフレーズの前半と同じ動きをしています。
『音楽的に意味のあるまとまりの最小単位』、言葉でいう単語を1つの音符だとすると、『文節』にあたるまとまりを、『動機』とか『モチーフ』と言いますが、バッハはこういうふうに1つの動機をひっくり返したり引き伸ばしたり縮めたりして、変化があるんだけど統一感もある、というふうに音楽を作りました。
もちろん、他の作曲家も同じことをしていましたが、バッハはとりわけそれが上手かった」
そう言うと、勇吾くんはピアノに向かって、その曲を実際に弾いた。
とても短い曲で、シンプルなのに華やかで、優雅で、そして完璧だった。
私たち家族は息を飲んだ。
「もしかしたら出来るかも」と思っていたことが、とんだ思い上がりだったと気付いた時の、きまりの悪さを共有していた。
しかし勇吾くんは、ピアノの椅子から立ち上がると、私たちに優しく微笑みかけた。
「バッハというと、まるで神様みたいに神聖視する人もいますが、就活に失敗したり、契約関係で揉めたりもする普通の人間です。案外いい加減なこともやったりする」
それから、音符の一つ一つに、手書きで指番号を振ってくれた。
親指が1、小指が5、と説明し、私たち家族を一人ずつピアノの前に座らせて、ゆっくりと一緒に弾きながら教えてくれた。
彼の教え方はとてもロジカルで、優しかった。
ベンチタイプのピアノ椅子に2人並んで座ると、親の前でイチャイチャしているみたいですごく恥ずかしくて、勇吾くんは真剣に教えてくれているのに、そういう気分を頭から追い出すのが大変だった。
でも、一つ一つの指遣いを教えてくれて、高い方の鍵盤で、ゆっくり一緒に弾いてくれる勇吾くんの音と、私の弾く音がぴったり重なった時、私はとても幸せな気持ちになった。
こういう時間を、奪わせてなるものかと思った。
私は戦い方を知らねばならない。そこでのルールや戦術、今置かれている戦況について。