92 桐一葉(5)
藤原邸の釣殿で話した会話は、昭仁と浮島、御劔達の胸の内だけの事とした。
咲子もだが、亡き妻の忘れ形見として咲子を愛しむ盈時にも、自分たちの与り知らぬ所で定められた宿命に、心痛める事がないようにと言うのが皆の気持ちだった。
昭仁の元に嫁ぐことで、咲子も盈時も子が出来る事を楽しみにしているかもしれないが、そこは授かりものだ。
実際、子を望めぬ夫婦もいるのだ。
月影の当主の唯一の妻として、子が出来ぬ事を他の貴族から踏み込まれれば、自分が黙らせればいい。
子が居ない事で咲子が気に病むようであれば、それを考えさせない程自分が咲子を愛しめばいい。
自分が選ぶのは、姿なき未来の我が子よりも、咲子が自分の傍に居る事だ。
そう言い切った昭仁に、浮島が頭を下げる。
「姫様をよろしくお願いいたします」
「それは勿論だが、浮島殿も御劔達も一緒に来てもらわねば。躑躅にとって浮島殿は母で、御劔達は兄だ」
その言葉に、浮島が嬉しそうに微笑んだ。
目覚めた日より、薬湯や食事など薬師の指示に素直に従う咲子は、少しずつ体力を取り戻していく。
元々食が細い方ではあったが、炊事を担当する侍女が工夫を凝らし、時には咲子の目を引きそうな料理を聞きつけては、腕を振るう。
時には、前に里山から咲子の為に食材を見つけてきた御劔達にも、再び頼み、作っている事を知って、咲子も感謝と共に出来るだけ食べるように心掛けた。
元が呪詛による衰弱だ。
体力だけではなく、精気も欣子に取り込まれてしまっていたのだから、回復に時間が掛かる。
それでも、十日もすれば帳台から出る事が出来るようになり、午後の暖かい時間には大好きな釣殿で過ごす事も増えた。
まだ、今までのような距離は歩けない為、必ず浮島と御劔の誰かが付きそう。
昭仁が居ると、心配して抱え上げてしまう事も多いが、咲子を思う気持ちがわかる為、そこは皆咎めない。
穏やかな日々が続き、以前のような日常が藤原邸に戻り始めた。
咲子が帳台から出られるようになった頃、昭仁は東宮より内裏へ呼ばれる。
「月白殿、その後の躑躅の姫の体調はどうだい?」
梨壺の母屋で向かい合わせに座る昭仁に、東宮が問う。
「お陰様で随分と良くなっております。昨日も午後からは釣殿で過ごし、気分も良いようですね」
「それは良かった」
そう言うと、東宮はほっとした様子で微笑む。
「暁子も随分と心配していたからね。かといって、自分から藤原邸に向かう事も出来ないし、月白殿は勤めが終わると早々に大内裏を後にしてしまうし・・・。頻繁に盈時殿に文を送る事も出来ないからね」
そう言うと、東宮は文を昭仁へと差し出す。
「暁子から、躑躅の姫宛ての文だよ。あと、滋養に良いものもいくつか用意してあるので、帰る時に持たせよう」
「ありがとうございます。東宮様、並びに常寧殿の方様にもご心配をおかけしました。躑躅も気にしておりますが、まだ出歩くまでには至っておりません。元気になりましたら改めてご挨拶に参りたいと思っております」
深々と昭仁が頭を下げると、東宮はふっと小さく笑う。その気配を感じた昭仁は、頭をあげると不思議そうな表情を浮かべる。
「いや、すっかり夫婦のようだなぁと思ってね」
東宮の言葉に、昭仁が心外だという表情をする。
「既に、義理父上様には『婿殿』と呼ばれておりますので、ほぼ変わりはないかと」
その言葉に、東宮はやれやれと言った顔をした。
此度の事で、咲子の父である盈時は、大層昭仁に感謝をしているという。
東宮の手によって調べられた、欣子内親王が起こした事件。
焼け跡からは欣子の亡骸と共に、呪詛の道具が見つかった。
陰陽寮の者が日時をかけて調べたところ、かなり高等な術である事が分かった。そこから見て、欣子だけで行う事は無理であり、協力者がいたのではないか、という結論に達した。
その知らせを受け、東宮が自身の抱える密偵に調べさせたところ、欣子が呪詛を行った夜から承香殿で圭子に仕える淡路の姿が消えたという。
当時は野宮の火事や、欣子が起こした衝撃的な事実に混乱した内裏、帝は勿論だが母である圭子の取り乱した姿に皆が気を取られ、淡路の姿が見えないのに気がついたのは、三日を過ぎていた。
圭子が側室にあがった時から圭子に仕え、欣子が生まれてからは乳母として仕えてきた者だ。
居なくなったのも、悲観してではないかと囁かれる。
事実、淡路の姿がないと気がついた時、淡路の与えられていた室へ向かうと、私物は残されたままだが、まるでこの世に未練がないように綺麗に片づけられ、整頓されていたという。
密偵がその後、行方を捜したが今日まで見つかってはいない。
「おそらく、欣子に呪詛を教えたのは淡路で間違いないだろう」
手にした扇をぱちりと閉じた東宮が、ため息と共に告げる。
「・・・淡路、ですか」
昭仁は東宮から告げられる言葉と共に、野宮で対峙した淡路の姿を思いだす。
―あれは、根之堅洲國の者だ。
『実った果実は収穫しませんと』
そう言いながら、自分で育てた欣子の命を躊躇いもなく絶うとした。自分が育てた内親王を、だ。
―人でなければ、いくら探しても見つかる事はないだろう。
「どうかしたかい?」
東宮の問いかけに、昭仁の意識が目の前の東宮へと向く。
「いえ。どちらにせよ、この世には居ないのかもしれませんね」
昭仁が告げると、東宮が頷く。
「欣子に呪詛を教えたにしろ、欣子のおこした此度の事に悲観して命を絶ったにしても、暫くは警戒が必要だろう。足取りは引き続きこちらの密偵が行う。月影は都の守りを強化して欲しい」
「わかりました」
「それと」
東宮がまた一つため息をつく。
「此度の事で、帝と承香殿の女御殿と欣子に対しての、責任を問う声が公卿達からも出ている」
「・・・そうでしょうね」
昭仁の「それが何か?」と言いだけな視線に、東宮が苦笑いを浮かべる。
「まあ、僉議の場で、あれだけ念押しをしたにもかかわらずの騒動だからね。欣子のおこした事は、正しい内容を公表した上で罪人として皇籍から外される。皇族として弔われる事もない」
「・・・帝と承香殿の女御殿が納得されるでしょうか?」
「これは決定事項だからね。そして、帝には責を取って退位してもらう。承香殿の女御殿は蟄居の身となるだろう」
「・・・その辺りが落としどころでしょうね」
東宮の言葉を聞き終わると、今度は昭仁が溜息をついた。
「私は、躑躅が責を負うような声が出ないようにしていただければ結構ですよ。自分達の都合よく話をする者達は多いですし、立場の弱い躑躅を傷つけようとする者達が、この先出ないとも限らないですから」
「それは勿論だ。今回の事は躑躅の姫にも藤原家にも落ち度はないからね。帝には退位して貰うけど、まあ、此度の後始末やらで即位まで一年はかかるだろう。それまでは帝には形だけの帝となっていただく」
「・・・兄上の事ですから、もう既に布陣はお済みでいらっしゃるのでしょう?」
呆れたように言う昭仁の言葉に、東宮が艶やかに笑う。
「月白殿にも手助けをして貰わなくては。当てにしているよ」
東宮の言葉に、昭仁は何度目かの溜息をついた。
東宮との話を終えた昭仁は、咲子の待つ藤原邸へと向かう。
藤原邸につくと、屋敷の者は昭仁が戻ることが当たり前のように「おかえりなさいませ」と出迎える。
「躑躅はどちらに居るのでしょうか?」
「今日は既にお部屋にお戻りで、旦那様とご一緒にいらっしゃいますよ。姫様は今日も体調もよくお過ごしでした」
案内役の侍女から笑顔で咲子の日中の様子を伝えられ、昭仁の口元が自然と笑みの形となる
「旦那様、姫様。月白様がお戻りでございます」
「戻りました」
室に入る手前の廂で侍女が告げると、一歩室に入った昭仁が、中にいる咲子と盈時、浮島へと声を掛けた。
「おかえりなさいませ。月白様」
「おかえりなさいませ」
躑躅が可愛らしく出迎えの声を、その後に浮島が続く。
「義理父上様、躑躅。今日はどのように過ごされましたか?」
咲子が倒れた後の東宮との対面時に、状況が落ち着くまで暫く休むようにと言われた盈時は、躑躅が目覚めてからは一緒に過ごす時間が増えたという。
盈時が居ない時に、咲子から「今まで月の半分、少ない時は十日程度しか過ごす事が出来なかったので、父上様と沢山過ごせて嬉しいです」と愛らしい顔で言われた事を、昭仁は思い出しながら二人に微笑む。
「婿殿、浮島とも相談したのだが、咲子の裳着を春に行おうと思っていてね」
そう告げられた昭仁が驚きながらも、三人に微笑み、頷く。
「まだ、日取りはこれからだが・・・ただ、婚儀に関しては此度の事もあるので、公の慶事は控え、一年後にした方が良いのではないか考えていてね」
末席でも皇族に連なる身分の源家だ。
前代未聞の出来事の処置に追われ、また皇籍から外されると言っても皇族だった者が亡くなっているのだ。貴族の中には快く思わない者も居るだろう。
「ええ、今日は東宮様とその事についても、話をしてきたところです」
そう言うと昭仁は、東宮から伝えられた欣子の事、圭子の事、帝の事を告げる。
「・・・そう、ですか」
聞き終わった咲子がぽつりと呟く。
体調が随分と安定してから、盈時と浮島に同席して貰い、咲子自身に何が起こったのかを昭仁は伝えていた。
その時の咲子はただ驚き、震えてはいたが、欣子に関する事は恨み言も言葉にする事はなかった。
「月白様・・・。内親王様を手厚く弔う事は出来ませんか?」
俯きがちに言う咲子の言葉に、皆が驚く。
「咲子・・・」
盈時にすれば何の咎もない可愛い娘が、逆恨みによって殺されかけたのだ。口には出さないが、欣子の処遇には哀れと思っても同情はないだろう。咲子になんと言えば良いのかわからないのか、名前を呼ぶだけで言葉に詰まる。
「躑躅が気にする事ではありませんよ?」
昭仁に言われ、咲子がゆっくりと視線をあげ昭仁を見つめる。
「確かに怖い思いも、傷つく事もありました。今でもされた事を思うと、怖くて震えます。それでも、皇族の皆様と一緒に眠る事が出来ないのであれば、せめて弔いがなければ寂しいのではないかと・・・」
言いながら、少しずつ膝の上に重ねた手に視線を落とす咲子を見て、昭仁がそっとその手を取る。
「・・・わかりました。そう思える優しい躑躅を、私は恋焦がれたのでしたね。東宮様に相談してみましょう。せめて、帝と承香殿の女御殿はお別れが出来るようにと」
咲子の顔を覗き込み、優しく言う昭仁の言葉を聞いて、咲子が小さく微笑んだ。
蟄居は武士または公家に対して科せられた刑罰で、閉門の上、自宅や別宅の一室に謹慎させるものです。





