90 桐一葉(3)
大内裏の中だけでなく、京の都で噂が流れる。
都に住まう者達の間、市や人の集まる場所では皆が囁き合う。
「目付様の姫様が呪われたそうだ」
「目付様の姫様と言えば、ついこの間、月の公卿様から望まれたという話の方じゃないか」
「実はその呪ったのは、末の内親王様らしい」
「そう、どうやら末姫様は、月の公卿様の正室に、目付の姫様が選ばれた事が気に入らなかったようだよ」
「でも末姫様と言えば、斎宮様となる為に嵯峨野の野宮に入られていたのでは・・・」
「それが、どうも神の地である野宮で呪詛を行ったようで、あの火事もその為らしい」
「あの火事の跡は酷い有様だったって、傍を通った行商が言っていたらしいよ。何でも三日燃えたとか」
「なんと、恐ろしい・・・!」
また、大内裏に勤める者達は、務めの間に囁き合う。
「聞きましたか、此度の野宮の火災」
「なんと恐ろしい事。野宮に仕える者が何人か亡くなったとか・・・」
「あれはここだけの話、末の内親王様が此度の月影の君と目付殿の姫との婚姻を阻もうと、呪いを行ったと・・・」
「しいっ! 滅多なこと申しては」
「いやいや、野宮で異形に遭遇したものによれば、それは恐ろしい者達であったと。そこに月影の君が異形退治と姫の呪いを解く為、参上したという」
「聞けば、末姫様は呪いの代償で、それは無残な姿で見つかったとか」
また、上位貴族達も、表立っては口には出来ないが、顔を合わせると囁き合う。
「聞きましたか。斎宮になろうかというお方が、野宮という場でそのような愚行を行うとは」
「・・・それもあり得る事かもしれませんぞ。何しろ今までの素行も。中宮様も手を焼いておりましたではありませんか」
「先の公卿僉議でのあの振る舞い、宮中での目付殿の姫に対する愚行・・・。源家の当主殿も、再三の忠告にも関わらず、内儀となる方を害されたとあれば、今回の事も致し方ないかと」
「・・・元はと言えば、帝が承香殿の方様と末姫様を甘やかした結果では・・・」
「滅多な事を申してはっ!」
「しかし、此度の事は帝ではなく、東宮様が御指図をされていると聞き及びました」
「東宮様は、どのようにこの件をお収めになるのでしょうか」
ヒソヒソといろんな場所で顔を寄せ合い、民が、貴族が噂をする。
目付である藤原盈時も公卿である源昭仁も、泊瀬斎宮の火事以降、大内裏で姿を見る事はない。
典侍達を含めた盈時や、咲子を知る宮中に勤める女達は、咲子の身を案じる。
「目付の姫様はどのようなご様子なのでしょうか・・・」
「常寧殿様によれば、呪詛は解かれたそうだけど、お身体への負担がある様子で、臥せっておいでとの事」
「目付様もご心配でしょう」
「でも今回の事は、月影の君が姫様のお傍に居たからこそ、悲しい事にならずに済みましたね」
「本当に・・・。何の罪もない姫様がこのような目に遭うとはお気の毒です」
今まで、欣子の我儘に振り回された事のある者達は、こぞってその死を悼む事よりも咲子の身を心配していた。
藤原邸では、咲子の目覚めを皆が待ち続けていたなか、咲子が長い眠りから目覚める。
「姫様・・・! どこかお辛い所は御座いませんか?」
ゆっくりと瞼を開いた咲子を見て、傍に控えていた浮島が喜びを含んだ声で、咲子に問いかける。
「浮島?」
「・・・はい、浮島でございますよ」
そう答えると、浮島は優しく微笑み、咲子の額を撫でる。
「胸は苦しくありませんか? 喉は乾いておりませんか?」
「・・・少し、喉が渇いています」
少しかすれ気味の声で応える咲子に、浮島が頷く。
「では、飲み物を用意いたしましょうね」
優しく答えると、浮島は咲子の室の隅に控え、咲子が目覚めた事に喜びと安堵の表情を浮かべている侍女に指示を出す。
「薬師様もお呼びしましょう。盈時様と月白様にも知らせを致しましょうね」
「月白様?」
「ええ。姫様が寝込まれてから、ずっと心配してこちらのお屋敷に留まっていらっしゃいますよ」
その言葉に、咲子は驚きの表情を浮かべ、身体を起こそうと動く。が、身体に上手く力が入らないのか、仰向けから横向きに体を動かすだけになってしまった。
「姫様!」
慌てた浮島が、咲子の身体を仰向けへと戻す。
「月白様がお見えになるのに、このような・・・」
「無理をしてはなりません。月白様も、姫様のお身体の方が大事と言われるでしょう」
「でも・・・」
焦がれる相手には、身を整えて会いたいという、乙女心なのだろう。
咲子の表情を見て、浮島が微笑む。
きっと咲子がどのような姿であっても、あの貴公子は嫌う事はないだろうと思うが、咲子の可愛らしい気持ちも痛いほどよくわかる。
「では、姫様。喉を潤してから皆に手伝ってもらって、少し御髪を整えて、紅をさしましょう。盈時様と月白様には一刻程してから、お知らせしましょうね」
そう微笑む浮島に、咲子は素直に頷いた。
一刻程経って、傍仕えにより咲子が目覚めた事を、盈時と昭仁は伝えられる。
「躑躅が目覚めたと!」
藤原邸に留まる昭仁の為に、用意された室で仮眠をとっていた昭仁は、咲子の傍仕えからの知らせで急ぎ、咲子の居る北対へと向かう用意をする。
「して、躑躅の様子は?!」
「目覚めてから、先程麦湯を飲まれました。まだ目覚めたばかりですので、お顔の色は良くありませんが、月白様がこちらにいらっしゃると聞いて大層驚かれておいででした」
「義理父上様には?」
「別の者が知らせに行っております」
無事、咲子が目覚めた。
その事に昭仁は喜びを噛みしめながら、咲子の元へと向かった。
「躑躅!」
咲子の室へ入ると同時に、帳台へと視線を向けた昭仁は、開けられた帳の向こうに、浮島に支えられ座る咲子を見て名を呼んだ。
そのまま速い速度で帳台へと進むと、咲子の側で膝をつく。
「起き上がって大丈夫なのですか?」
ゆっくりと咲子の頬に手を伸ばすと、その体温を確かめるようにそっと触れる。
「はい、少し辛いので浮島に手伝って貰っています。月白様がいらっしゃるので・・・」
恥ずかしそうに、はにかみながら言う咲子の頬には、普段のような赤みはまだない。いつもは瑞々しく目を引く唇は少し乾いていて、そこには桜色の紅が薄くのせられている。
自分に会う為に、身体が辛いだろうに身を整えてくれたのだろう。
その思いが伝わり、昭仁は咲子への愛おしさで腕に閉じ込めたくなる衝動に駆られるが、浮島の視線を感じ何とか思い留まる。
「その気持ちは嬉しいですが、まだ顔色もよくない。無理をしてはいけません」
柔らかな視線で、微笑みながら昭仁がそう言うと、咲子がこくんと頷く。
「躑躅が倒れて、生きた心地がしませんでした」
「心配をかけてしまい、申し訳ありません」
「でも、身体が辛くても、私の為にと、こうして身支度をしてくれる心を嬉しく思います。その紅もとてもよく似合っている」
甘く蕩ける様な視線を咲子に向け、昭仁は愛おしそうに咲子の頬を撫でると、咲子が恥ずかしそうに俯いた。
「咲子!」
不意にかけられた声に、咲子と昭仁は室の入口へと視線を向けると、そこには息を切らした盈時の姿がある。
「父上さま」
「良かった・・・」
涙目になった盈時は、そのまま室へ入り咲子の元へと進み、それを見た昭仁はそっと咲子の頬から手を離すと、自分が居た場所を盈時へと譲る。
「父上さま」
「起き上がっていても大丈夫なのか?」
「まだ少し体は辛いですが、月白様と父上さまがお見えになると聞いたので」
「ああ、そのような事・・・婿殿と顔を合わせたのであれば、横になりなさい」
「ええ、そうですよ。無理はいけません」
今にも泣きそうな表情をした盈時を見た咲子は、昭仁の言葉もあって素直に横になる。
「薬師の手配は?」
「はい、既に。もう少しすればお見えになるかと」
咲子が横になったのを確認した盈時は、浮島へと問う。
「咲子、苦しい所はないかい?」
「大丈夫です」
「ああ、本当によかった。ずっと何も口にしていなかっただろう? 婿殿が前に持ってきてくれた蜂蜜を用意させよう」
盈時はそう言うと、急ぎ用意するようにと侍女たちに指示をする。
「まずはしっかりと食べて、薬を飲んで休みなさい。父も暫くはこちらに滞在するよ」
優しい瞳で咲子に語り掛ける盈時を見て、浮島と昭仁はそっと目配せをする。
「では、暫しお二人でお過ごしください」
「躑躅、あとでまた来ますね」
昭仁と浮島の言葉に咲子が頷き、盈時が「すまないね」と眉を下げる。
亡き正室の忘れ形見である娘が、呪詛によって失われる可能性があったのだ。助かり、目覚め愛らしい声を聞かせてくれる事が、どれだけ嬉しいだろうと昭仁は思う。
「今は義理父上様と過ごされる方が良いだろう」
昭仁は廂から仲睦まじく会話をする親子を見て微笑む。
近い将来、自分はあの優しく娘想いの義理父から、最愛の玉を渡されるのであるから。
「・・・月白様」
廂から穏やかな表情で二人を眺めていた昭仁に、一緒に室を出た浮島が声を掛ける。
「浮島殿」
「少しお時間をいただきとうございます」
頭を下げる浮島に、昭仁が頷く。
「あの時、お伝えした姫様の事と、わたくし共の事をお話させていただきとうございます」
顔をあげた浮島は、咲子のお気に入りの場所である釣殿へと昭仁を誘った。