68 黄泉路(2)
延長八年-九三〇年- 長月 京の都
朝晩が冷え込み始め、火鉢が室へと置かれ始めた。
藤原邸では、咲子の咳が収まらない。
二度目の往診でも、薬師は風邪だと判断し、引き続き薬湯が処方される。
勤めが終わると毎日のように立ち寄る源昭仁も、一向に収まらない咲子の病状に心配し、昭仁より手配された滋養に良い食べ物などが届く。
また、苦しそうに咳き込む咲子を見て心配する御劔達も、須佐斉頼から教えて貰ったという、咳に効くという薬草を交代で取りに山へと向かう。
先日は山に入った迅雷と封土が立派な雉を仕留めて帰り、屋敷の者が目を丸くした。
「おかしいですね。風邪であればそろそろ落ち着いてきても良いものですが・・・」
日ごとに咳が酷くなる咲子を心配した昭仁が、源家に古くから仕えている薬師を連れてきたが、やはり風邪という診断が出る。
軽い咳だったものが、この数日で肺の奥から空気を吐き出すような苦しそうなものへと変わり、今日は帳台から起き上がる事が出来なくなってしまった。
「本当に風邪なのか?」
診察を終えた薬師に昭仁が問う。
「はい。ただ、咳込みが酷い為、呼吸が浅くなって脈が速くなっております。また熱も出始めたようで体が熱くなられています。疫病であれば、既にこのお屋敷の中でも姫君と同じ症状の者が出てもおかしくないかと思われますが、それもありません」
薬師も疫病を疑ったのだろう。
「原因が分からぬ為、薬湯と安静で様子を見るしか御座いません」
昭仁に告げた薬師は、あとで調合した薬を届けると言って藤原邸から下がった。
「月白様、姫様がお呼びでございます」
原因が分からないと薬師に言われ、何か手立てがないものかと思案する昭仁に浮島から声を掛けられる。
「躑躅の様子は?」
「少しお熱が出始めたようですが、薬湯のお陰か、少し咳が楽になったようなのでお呼びに参りました」
浮島の言葉に、昭仁は足早に咲子の自室へと向かう。
帳の下ろされた帳台には、浅い呼吸を繰り返す咲子が横たわっている。
本来、帳が下ろされた帳台は、肉親や妻や夫などの近親者以外は入る事は出来ないが、どうしても昭仁と話をしたいという咲子の為に、盈時が許可をした。
「躑躅」
中に入った昭仁が心配げな声で、咲子を呼ぶ。
それに気がついた咲子が体を起こそうとするのを、慌てて傍に控える浮島が支える。
「ああ、私が支えましょう」
息が浅く苦しそうな咲子を、浮島と交代して後ろから昭仁が支える。
「月白、様」
「ああ、無理をしないで下さい」
「・・・このような姿で、申し訳、ありません」
「私が心配でいても経っても居られず、押しかけただけです」
苦しそうに、浅く息をする咲子を昭仁が労わる。
「あの時、月白、様から・・・厭いなさいと、言っていただいた、のに・・・」
「そうですね。でもこうやって躑躅の傍に居られるなら、私は構いませんよ」
柔らかく微笑む昭仁の言葉に、咲子も力なく微笑む。
「元気になったら、紅葉を見に遠出をしましょうか」
「・・・は、い」
その返事の後、咲子は先程よりは幾分ましだが、辛そうに咳き込む。
昭仁は咳をする咲子の背中を撫でながら、浮島へと視線を送ると浮島が場を離れる。
「浮島殿に蜂蜜を溶かした湯をお願いしました。それなら口に出来るでしょう?」
呼吸が辛い為か、咲子は昨夜から薬湯と、少量の水しか口にしていないという。
暫くすると、浮島が椀に入った湯で溶いた蜂蜜と匙を持って戻ってきた。
昭仁は匙を受け取ると、碗からひと匙掬い、咲子の口元へと持っていく。
「さあ、口をあけて」
呼吸が上手くできない為に、身体を動かす事が辛い咲子は昭仁の顔、匙、浮島へと視線だけを向ける。
「姫様、折角の蜂蜜湯です。口にすると体が温まりますよ」
浮島にもすすめられ、咲子がおずおずと口を開くと、乾いた口の中に温かい甘味が少しずつ流し込まれる。
「熱くはないですか?」
昭仁の言葉に小さく咲子が首を振る。
「では、もうひと匙。・・・なんだか餌付けをしているようで可愛いですね」
楽しそうに微笑みながら言う昭仁の言葉に、咲子の顔が赤く染まった。
結局、三匙程の蜂蜜湯を何とか口にした咲子は、その後昭仁の腕の中でうとうとし始める。
「月白様、ありがとうございます。昨夜も咳のせいで眠れなかったようですし、月白様にお会いできて安心したのでしょう」
その様子を見た浮島が、ほっと息をつきながら昭仁に言う。
「躑躅が眠れるのであればいくらでも。しかし、このように身を預けられると、中々放し難くなるものですね」
咲子の眠る顔を見て、昭仁は浮島に微笑む。
いつもきらきらと琥珀のように輝く瞳も閉じられ、長いまつ毛が影を作る。いつも艶やかで紅を乗せたような唇は少し乾いているが、愛おしいと思う気持ちは増すばかりだと昭仁は思う。
そのまま昭仁は咲子の眠りを妨げないようにと抱え、しっかりと眠りに落ちたのを確認した後、咲子の身体を帳台へとそっと横たえた。
夜も更けた子三刻、源家の自室にある帳台で眠る昭仁は、帳の外に突然現れた気配を感じ目を覚ます。
「そこに居るのは・・・」
低く言う昭仁の声に、気配が動く。
「颯水でございます。姫様の容態が悪化しております。至急藤原邸にお越しいただきたく」
帳の外で聞こえた声は聞き覚えのあるもので、昭仁は帳を開く。
そこに居たのは、咲子の近衛である颯水が片膝をつき頭を下げている。
「どうやってここに入ったのかは後でお話いたします、急ぎ」
そう言うと、颯水は手にした扇をひと振りし、昭仁へと風を送る。
風をふわりと感じた次の瞬間には、単姿だったものが動きやすい狩衣へと変わり、昭仁が驚きに目を瞠る。
「これは―っ」
「お急ぎください。月白様のお力が必要なのです」
何時も落ち着ついている颯水の声に焦りが見え、昭仁は頷き颯水の後へと続く。
自室から廂に出たところで、颯水が振り返る。
「時間がございません。ご無礼を」
一言伝えると、颯水は狩衣の袖で昭仁の視界を覆った。
「なっ!」
驚きで声をあげた次の瞬間、目の前に広がっていた袖が無くなり、昭仁の視界に広がるのは、見慣れた釣殿から見える藤原家の庭だった。
「・・・っ」
「家のものには気付かれぬよう、界を張っております。急ぎましょう」
驚きで目を見開いている昭仁に、颯水は昭仁を促し、咲子の室へと向かう。
「公卿様をお連れしました」
普段であれば、咲子の室の前で控える颯水が室内へと進み、それに続く昭仁は室内の様子に一瞬息をのむ。
「躑躅!」
帳台には激しく咳き込み、胸元を抑え浅く息をする咲子の姿が帳越しに目に入る。
時折喉を通る呼吸の音が聞こえ、それだけでも咲子の様態が昼間の時よりも悪化しているのが分かる。
何よりも、異質なのは咲子の帳台を囲むような黒い靄だ。
帳の傍に控えた颯水を除く御劔の四人が、靄が帳に近づき取り囲むたびに払う。
「公卿様、帳台へ」
颯水の声に弾かれるように咲子の元に向かった昭仁は、傍で咲子の背をさする浮島を見る。
咲子の背に手を添えた浮島の手に、僅かな黒い靄と、それを打ち払うように小さな稲光が光っているのに気がつく。
「これは!」
「姫様は呪詛を受けておいでです。まさかこのような形で現れるとは・・・わたくし共も気がつきませんでした」
思い至った昭仁の言葉に、浮島が告げる。
「浮島様が今抑え込んでいるが、それでこの状態じゃ姫さんの身体がいつまでもつか」
「・・・この呪詛は厄介や、ぎりぎりまで表に出てきいひんもんらしい」
迅雷、宵闇の声に焦りが見える。
「わたくしは月影の家のような性質ではない為、これ以上抑えるのは至難。寧ろ姫様の心と身体が砕け散ってしまう可能性が・・・」
「呪詛であれば、私が担う。その為に私を呼んだのでしょう」
浮島や御劔達の様子に問いたい事はあるが、皆が咲子を守る為というのを理解した昭仁は、浮島の言葉に答えると、苦しむ咲子の頬にそっと手を添える。
添えた手に尋常ではない熱が伝わり、それだけでも咲子の状況が良くない事を昭仁は察する。
意識が朦朧としたまま咳き込み、苦しさから咲子の閉じた目から涙が零れ、頬を伝う。
呪詛や妖に対しては、月影の家が代々担ってきたものだ。
月影の当主である昭仁より高い能力を持つ術者は、この都や周辺の国を探しても居ないだろう。
通常、陰陽寮の者や、一般に退魔師と呼ばれる者達は、護符を描き、それを使う。
だが、月影の家は護符も術式も道具を使わず行えるのだ。
勿論、通常のように護符を使う事もあるが、意識の中に正しく護符を描き、術式を唱える事で護符と同じ、またはそれ以上の効果を発揮できる。
どんな状況でも瞬時に最適な術を組み、対応し、払う。
それが月影の能力者たちだ。
昭仁は意識を集中して、咲子にかかっている呪詛を探る。
バチバチバチッ!
苦しむ咲子の身体の周りから小さく火花があがった。それと同時に咲子の周りに薄皮一枚あるような感覚を感じる。
それは幾つも複雑に組み込んだ場合に起こる現象だ。
無理やり解こうとすれば、複雑に組み込んだ呪詛が咲子自身にどのように影響を及ぼすかわからない。
「躑躅にかけられている呪詛は一つではないようです。複雑に幾つもの術が施されている」
咲子の傍にいる浮島に昭仁が告げると、浮島が頷いた。
「公卿様!」
帳の外に控える封土の声だ。はっとして帳の中の二人が外へと視線を向けると、漂っていた靄が少しずつ複数の塊になり始めている。
「ったく、次から次へと手の込んだ事で!」
迅雷が舌打ちと共に言うと、他の四人も臨戦態勢とる。
「こいつら、そのものとも無し輩かっ」
「私達がここは抑えます。浮島様と共に、姫様を」
不知火の言葉に、颯水が昭仁へと告げる。
その言葉に昭仁は頷くと、浮島へと視線を向ける。
「これから躑躅にかけられた呪詛の種から呪詛元を探します。浮島様、もう暫く躑躅を頼みます」
そう言うと、昭仁はもう一度意識の中で護符を描き術式を唱えた。