32 心悸
―そう、私は女優・・・!
月森COOと一緒に、会場となるホテルに着いた私は、何度目かの呪文の言葉を心の中で呟いた。
金曜日の定時前、『開始時間が十九時だから用意の為、少し早めに』と言われ、成瀬さんと月森COOに連れ出される。
COO専用車の後部座席にCOOと並んで座らされ、十五分もしないうちに到着したのは、会場となるホテルから歩いて五分の、繁華街でも少し落ち着いた区画にあるブティックだった。
「ここは知り合いが経営しいてね。一階から三階が服や装飾品、四階がヘアサロンだから一か所で用意はできるよ」
後部座席から降りようとすると、当たり前のように手を出された。
一瞬、出された手を見て戸惑ってしまうのは仕方がないと思う。
思わず月森COOの顔を見ると、ふんわりと微笑まれてしまい、おずおずと手を乗せると、そのままスマートにエスコートされ、店内へと案内された。
―ここ、絶対お高い物しかない店だ!
入った瞬間、直感で思う。
店内に入ると、三十代後半ぐらいと思われる綺麗な女性が、にっこりと笑顔で挨拶をしてくれた。
「いらっしゃいませ、月森様。こちらのお嬢様ですね?」
「お願いしていたように、彼女を頼むね」
「畏まりました。お任せください!」
力いっぱい月森COOに返事をした後、気合の入った笑顔を私に向けられて、思わず怯んでしまう。
「では、お嬢様はこちらへ。月森様も少しお休みになってからご案内いたします」
さあさあ、と有無を言わせない勢いで、奥のエレベーターへと案内される。
「いってらっしゃい。仕上がりを楽しみにしているよ」
楽しそうに月森COOは私に言うと、スタッフの方と共にフロアにあるソファーへと案内されてしまった。
私は訳が分からず取り合えずついて行くが、マンガだとよく見る「目がぐるぐる渦巻で混乱している人」のように見えたのだろう。状況について行けず一人、あたふたとしている私を見て、案内の女性がくすりと笑う。
「ふふ、申し訳ありません。私は八坂と申します。とても楽しそうな様子で月森様がご依頼なさったのでつい、気合が入ってしまいました。うちのサロンは一流ですから、お任せください」
そう言い終わった時と同時にエレベーターのドアが開き、上品で洗練されたオシャレな空間が広がる。
その様子を見て、思わず「庶民の私には縁のない場所だなぁ」と、妙に冷静に思えるぐらいには、気持が落ち着いてきたようだ。
「お荷物、お預かりします」
アシスタントの方かな。私と変わらないぐらいの年齢の女性が声を掛けてくれた。
「あ、お願いします」
「では、お嬢様はこちらへ」
荷物を預けた途端、別の女性が次の場所へ案内をしてくれる。
仕方がない、請け負ったのは私だし!と、ふんすと気合を入れなおした私だけど、その一時間半後には、すっかりとその気合も消えてしまっていた。
「ああ、思った通り。良く似合うね」
準備が終わり、一階へと降りた私をみて、手放しで褒めてくれる月森COOは、いつにも増してキラキラとしている。
元々、月森COOはさらりと仕立ての良いスーツを普段も着ているけど、さすがにパーティーとなると、それよりもグレードの高い者と思われ女スーツを着こなしていて、流石だと思う。
お世辞でも月森COOが褒めてくれた私は、この完成形までに、シャンプーにブローにメイクと進み、そのあと髪をセットされた。
その後三階へ降り、フィッティングルームで用意されていた、パーティー用のワンピースに着替え完了。
整えてくれた髪やメイクが崩れないよう、ヘアメイクさんが待機してくれているという徹底ぶりだ。
―何なの、この状態。どこのお嬢様への接客ですか。
色々と気遣われる度、心の中で「庶民がすみません」と、何度謝っていただろう。
フィッティングルームに案内されて、何度目かの謝罪を心に浮かべていた私の前に用意されたのは、肌さわりがサラサラとしたジョーゼット素材の、マゼンタ色のノースリーブワンピース。
ウエスト部分にふんわりとしたリボンが付いている可愛らしいデザインで、その上からオフホワイトの姫袖になった、五分袖のレースのボレロを重ね、足元はワンピ―とおなじマゼンタのストラップパンプス。
アンクレット部分にオフホワイトのリボンが付いていて、とても可愛い。ネックレスはプラチナにキラキラとした1粒石のシンプルなもの。用意されたバッグはオフホワイトだ。
びっくりしている私の気持ちは置いてけぼりのまま、スタッフさん達は私の着替えを手伝ってくれる。
着替え終わると、洋服もパンプスもあつらえた様にぴったりで、ちょっと驚いた。
髪は絶妙にふんわりと緩く編み込まれ、所々おくれ毛を残してアップにされた。メイクもいつもより華やかに見えるのは、ワンピースの色に合わせたリップのせいかもしれない。
「いかがですか? 月森様。お肌も白く綺麗ですから、あまりメイクは濃くせず、元々の可愛らしさを推させていただきました!」
どうだ、と言わんばかりに自信満々に八坂さんが言うけど、自分としては身に着けているものの値段が気になって仕方がない。
―コレ、イッタイイクラナンダロウ・・・。
だけどそんな私の気持ちは伝わってないのか、月森COOは満足そうに微笑む。
「彼女の着ていた服や荷物は、あとで成瀬が取りに寄るから渡してもらえるかな?」
「畏まりました。では纏めておきましょう。タクシーをお呼びしましょうか?」
八坂さんの言葉に、一瞬、月森COOが私の顔をみて考える素振りをするので、私も何だろうと首をかしげる。
「あのね。会場は、ここから歩いて五分もかからないんだ」
「そう言えばそう、ですね?」
「いきなり会場入りだと、榴ヶ崎さんも緊張しそうだからね。会場まで散歩なんてどうかな?」
「それは素敵ですね!」
私が答えるより先に、被せ気味に八坂さんが口を開く。
「履いている靴も、内側がとても柔らかいので靴ずれの心配もありませんよ。それに、私たちもお嬢様の仕上がりにとても満足してるので、ぜひ見せびらかしてください!」
「と、言う事でいいかな?」
そう言いながら、月森COOが手を差し出す。
見せびらかすって何なんですかと少し呆れながらも、まずはこの目の前の状況。
ええと、この場合は素直に乗せるべきかな・・・と、戸惑いながら差し出された大きな手に自分の手を乗せる。
―あっ!
そう思った瞬間、私の手が大きな手に包まれてしまった。
なにこれ、手繋ぎ・・・
頭が状況を理解した途端、ぽんっと顔に熱が集まる。
「いくら舗装された道でも、履きなれていない靴だと危ないからね」
確かに、履いている靴はいつも履くパンプスよりも、少し高くて細めのヒールだ。
下手したら、ちょっとした凹凸に足を取られてしまうかもしれない。せっかく綺麗にして貰ったのに転ぶのも避けたい・・・!
普段の自分なら、残念ながらあり得る事だ。美形度割り増しの月森COOの横で、恥ずかしい状況は避けたいと思う。
でも、この状況は恥ずかしい。
赤くなっている私とは違い、月森COOはいつもと変わらず優しく目元を緩ませているだけだ。
「じゃあ、行こうか」
月森COOの言葉を合図に、八坂さんがドアを開けてくれた。
一歩外に出ると、包まれるように繋いだ手が指を軽く絡めるような繋ぎ方になり、益々熱が顔に集まる。
―ああ、もうっ 心臓がうるさい、沈まれ、落ち着け
暗くなり始めた街と、会社や学校帰りの人が行きかう街中を、ドレスアップした月森COOと歩く。
すれ違う人がちらちらと見るのは、華やかなイケメンがこんな所に?! という気持ちなんだろうなと思う。
私の歩調にあわせて歩いてくれる、月森COOの横顔をちらりと盗み見るとさっきのは見間違いではなく、イケメン度が割り増ししていた。
こんな素敵な人の隣が私でいいのだろうか、と思い、わからないように息を吐いて呪文を唱える。
―よしっ、私は女優、女優・・・。
「・・・やっぱり、タクシー呼べばよかったな」
何か月森COOが呟いたようだけど、心の呪文と車の音で聞こえなかった私は聞き返す。
「何か仰いましたか? ちょっと聞こえなくて」
「いや、榴ヶ崎さん、足は大丈夫?」
「はい、平気です。ほんとこの靴歩きやすくて」
「それなら良かった」
道すがら、月森COOから今日のパーティーの趣旨とどんな人が集まっているのか、確認の為に教えてもらう。
事前に教えて貰ってはいたけど、今はこのふわふわとした気持ちと、煩い心臓の音を落ち着けるのが先だ。
そんな事を思いながら歩いていると、あっという間に目的地についてしまった。