30 種
「・・・由加里さん」
トントンと肩を叩かれ、沈んでいた吉野の意識がゆっくりと浮上する。
暗く重い水の中から、ゆっくりと身体が浮上するような感覚に包まれ、身体を動かす事、瞼をあげる事すら億劫な気持ちになる。
「ご自宅に着きましたよ。声を掛けましたが、目が覚め無いようでしたので」
立花の声で意識を浮上させて瞼をあげると、車の外には見慣れた住宅街が広がる。
身体が重く、何かがまとわりつく様な感覚が残る身体をシートからゆっくりと起こすと、立花が手を差し出した。
「大丈夫ですか? やはり調子が良くないのでは?」
「・・・大丈夫よ、少し頭が痛いだけ。薬を飲めば収まるわ」
今日は感情が高ぶったせいだろう。そう思い、吉野は不機嫌さを隠さず立花の手を取る。
「そうですか。では、明日は用心の為、車でお送りしましょう」
「・・・お願いするわ」
一瞬の間の後、吉野が承諾の言葉を告げると、立花が薄く微笑んだ。
立花は玄関先まで吉野を送ると、迎えに出た手伝いの女性に明日の朝迎えに来ることを伝え、吉野邸の敷地内の駐車スペースに停めてあった、仕事の為に用意されている車へと乗り換える。
吉野の父親の許可を得ているとはいえ、仕事の途中に抜けた為、一度は事務所へと戻らなくてはならない。
娘に甘い父親だ。
吉野の体調が良くないと言えば、最優先で手配をする。娘が望めば、それを叶えようと躍起になる。それがとても滑稽だと立花は思う。
「やはり相変わらず『守り』は堅いようだ」
すっかり日も落ち空は暗くなり、反対に煌々と明るい色彩を放つ街中を、車を走らせながら立花が呟く。
口元に笑みが浮かび、楽しげにも聞こえる口調だ。
「さあ、せっかく御膳立てはしたんだから、今度こそは上手くやってくださいね。本来ならゲームオーバーの所をリセットしてあげたんですから」
好奇心が抑えられない、と、いった様子で機嫌よく立花が呟く。
その表情は、子供が新しいおもちゃを手にしたような顔だった。
「つつじちゃん、今日司波さんの戻りは何時になる?」
「もう少し打ち合わせが長引きそうだって、先程連絡が入ってました。予定は十六時ですね」
「あぁ、それだと入れ違いになるなぁ。悪いけどこれお願いして良いかな。明日朝イチで報告しますって連絡入れておくから」
「わかりました。お預かりしますね」
COOから出てきた榴ヶ崎えりに、フロアの営業チームの一人が声を掛ける。
七階フロアが動き出して一ヶ月。
五月の連休も過ぎて、皆がそれぞれのペースを掴み、フロア全体が同じ目標に向かっているというのもあって活気がある。
COO室とフロアとのパイプ役のえりも、慣れない事も多いが、COO室やフロアの皆からのフォローもあって忙しく毎日を過ごしている。
誰が呼び始めたのか「つつじちゃん」という愛称も、すっかり定着してしまった。
「あ、つつじちゃん! これなんだけど・・・」
書類を受け取ったえりに、管理部署の片山から声がかかる。
「あ、はい」
「なんや。自分がこっちにおるんやから、姫さん通さず言うたらええのに」
えりが返事をするのと同時に、COO室から久我が現れる。
声を掛けたのが、自分に属する部署のの一人だったのが、聞こえてきた声で分かったのだろう。
久我が呆れたように言うと、片山が肩をすくめる。
「え、なんて言うか」
「何?」
にっこりと整った顔に、笑顔を久我が浮かべるのを見た片山が、焦って言葉を探す。
久我の笑顔は、麗しいという言葉がぴったりだ。
だが、その笑顔を片山が焦ったように受け止めるその様子は、ある意味『蛇に睨まれた蛙』のようだとえりは思う。
―久我さんは元々京都の出身で、大学は月森COOたちと一緒だったって言ってたなあ。
拓や司波を含め、責任者チームは雰囲気はそれぞれ違うが、皆見た目が良い。所謂誰が見てもイケメンと言われる部類に入る。
その中でも久我は、中性的な顔立ちと、普段から出る京都の言葉の影響もあるのか、しなやかで雅な雰囲気だ。
同じ内勤でも、何となく声を掛けづらいというのはわかる気がする、と、えりも思う。
―纏ってる空気が違う感じ。あと、なんて言うか、本心が見えない印象なんだよね。でもそれだけじゃなくて。
そう思いながら、えりが小さく笑う。
司波と桐生は早くから支店にいた為、気軽に会話ができる関係を築いていたが、拓を含め他の四人は春に知り合ったばかりだ。
暫くはえりも距離感を考えながら接していたが、今ではその垣根も低い。
特に久我は第一印象と違い、気取ったところもなく話すと案外気さくだ。
仕事は勿論優秀だし、女性のように綺麗な顔をして冗談も言う。
そう思っていた為か、えりの口から自然に言葉が出る。
「久我さんが美人だからですよ」
「んっ?」
えり自身、意識せず口から出た言葉だったが、それに久我が反応した。
しまった、と思ったが、久我だけでなく片山も虚を突かれたように、びっくりとした顔でえりを見つめ、周りでその様子を見ていた者達も一斉に動きが止まった。
「・・・へぇ。姫さんは、そう思うてくれとったん?」
口の端をあげる久我の笑顔と言葉の背後に、黒いものが見えたえりには、背中に冷や汗がでるような感覚になり、思わずぎこちない笑みを浮かべてみる。
さっきまで自分に向けらりていた矛先が、えりに向いたの感じた片山が、慌てて答える。
「なんて言うか、こっちが勝手に気後れしちゃったというか。つつじちゃんの言うように、久我さん美人ですしっ!」
「・・・可愛いお嬢さんならまだしも、男に言われても嬉しないけどなぁ。まあ、そう言う事にしとこか。あのな、COOも言ったやろ。各責任者を頼れって。でないと、何の為に自分らがここにおるかわからへんやろ? それから、姫さんの仕事を無駄に増やさんように」
「それと、久我さんに『美人』は地雷ですからね。この人、こう見えて女顔なの気にしてますから」
久我の小言に、いつの間にかCOO室から出てきた宗方が、さり気なく後付けをした。
その言葉を聞いた久我を除く二人が、引きつったように顔色を変えるのを見て「仕方がない、許したるわ」と久我が笑う。
二人がほっと息をつき「すみません」と頭を下げた途端、様子を見ていた周りから、笑顔がこぼれた。
そんな和気あいあいとしたフロアの様子に、吉野が不機嫌そうな視線を向ける。
―その場所も、そうやってちやほやされるのも、本当は私だったのに!
宗方や成瀬、拓は、えりの事を名字で呼んでいたが、司波と桐生が当たり前のようにえりに言っていた「姫さん」という呼び名を、あの久我も使っている。
いつの間にか、その呼び名も一部のフロア内では浸透してしまっているのも、えりが愛称で呼ばれる事も、吉野は気に入らなかった。
―何が「姫」よ! そう呼ばれるべきは、私でしょう?!
黒く、ドロッとした感情が胸の中に広がる。
―目障りで仕方がないのよ、あんな子、消えてしまえばいいのにっ!
気に入らない、気に入らない、気に入らない! いつもあの子が私の邪魔をする・・・!
そう思った瞬間、入力していたキーボードがカチャン、と、大きく音を立てた。
「吉野さん?」
斜め前に座る遠野に声を掛けられ、吉野が顔をあげると、目が合った遠野と向かいに座る千葉が眉を顰めた。
「・・・すみません、ちょっと出てきます」
「・・・そうね」
ガタン、と、大きな音を立て、吉野は立ち上がると、足早にフロアを出て行く。
「・・・自分の顔気がついてるんですかね? 般若みたいな表情でしたよ」
「さあ?」
出て行った吉野の背をちらりと見ながら千葉が言うと、遠野が興味ないといった風で答える。
「どちらにしても、彼女の感情は良くない方向には進みそうね」
パソコンの画面に視線を向けたまま遠野が呟くと、千葉が何とも言えない表情を浮かべた。