17 糸を引く(1)
延喜二十三年-923年- 如月 京の都
朝の冷えた空気から暖かい日差しとなった未一刻、小さな足跡がぱたぱたと渡殿に響く。
「姫様、そのように走られてはっ・・・」
小さな愛らしい少女が、すれ違った侍女に呼び止められ足を止める。
「ごめんなさい。でもね、もうすぐちちうえさまがきてくださるの」
嬉しそうに伝える言葉と姿に、侍女もつい微笑んでしまう。
母親譲りの整った顔立ちと、その場にいるだけでパッと華やぐ愛らしさを持つ姫は、四歳となる。
年々花が開くように愛らしさが増し、その姿を見た貴族たちからは年頃になればどれだけの美姫へとなるのか、と噂をされるほどだ。
「嬉しいのはわかりますが、姫様のお淑やかなお姿を見た方が、旦那様はお喜びになるかと思いますよ」
視線を少女の高さに合わせ、優しく言葉を紡ぐと、少女は丸く愛らしい瞳をぱちぱちと瞬かせ、こくんと頷く。
「さあ、姫様。一緒に参りましょうか」
侍女は小さな手を取ると、この家の主、藤原盈時を迎える場へと向かった。
「ちちうえさまっ」
少女の瞳に直衣姿が移った途端、少女は侍女の繋いだ手からするりと自分の手を離し、そのまま駆け出した。
侍女が静止の声を掛ける間もなく、小さな足音を響かせ、少女は振り返った盈時の足へと勢いよく抱き着く。
「咲子」
抱き着かれた盈時も嬉しそうに名前を呼ぶと、笑顔と共にふわりと咲子を抱き上げる。
「久方ぶりだね? 元気だったかい?」
「はいっ」
盈時は、抱き上げた咲子の顔をしっかりと見るように、視線を合わせて問いかけ、その問いに咲子は嬉しそうに笑顔で元気よく答える。
「それは良かった。美味しいお菓子を持ってきたから一緒に食べよう。父がいない間の話を聞かせていくるかい? それと今日は申三刻の頃に咲子に会いに人が来るよ」
「おきゃくさまですか?」
「今日のお客様は常寧殿の方様がね、咲子の家庭教師にとその方を紹介してくれだんだよ」
「じょうねいでんさまがですか?!」
「そう、『わたくしの可愛い小さな姫は、そろそろ本格的にお勉強を始めなければいけないでしょう? 咲子さんが生まれる前の紗子様と、お知り合いだったという方にお会いしたのよ。有名な先生でいらっしゃるから、まだ家庭教師がいないなら咲子さんにどうかしら?』と言ってね」
常寧殿の方とは、未来の中宮として東宮に嫁いだ女人で名を暁子と言い、咲子の亡くなった母・紗子親戚筋にあたる。
東宮妃となり、本来はそうそう気軽に声を掛けられる方ではないが、暁子が幼い頃から紗子を憧れの女性として慕っていた事もあって、東宮妃となった今も何かと気遣ってくれていた。
咲子と会う度、暁子は忘れ形見の咲子を『紗子様は藤の花のような美しさを持つ方でしたが、咲子さんはまるで躑躅の花のような愛らしさだわ』といい『躑躅の姫』と名付け、可愛がってくれている。
「おべんきょう・・・」
盈時が常寧殿の方の口調をまねながら伝えると、咲子はむぅっと眉を寄せ口を結ぶ。その顔を見て盈時が面白そうに笑った。
「咲子は勉強は嫌いかい?」
「しらないことをしるのはたのしいです。でもおさんぽやおひるねのほうがすきです」
素直な言葉に盈時がおやおや、といった顔をしたのを見て、侍女が慌てて言葉を続ける。
「旦那様、姫様は普段もお勉強を十分頑張っておいでですよ。そうそう、姫様。旦那様にお願いする事があったのではないですか?」
侍女の言葉に、盈時が微笑みながら咲子の顔を覗き込む。
「なんだい、言ってごらん」
「ちちうえさま、おことがならいたいです」
「琴?」
「どうやら先日、常寧殿の方様からのお誘いで宮中に上がった時に、奥方様のお琴の話を聞かれたようで。それ以来姫様は興味を持たれたようです。丁度奥方様の琴も御座いますし・・・」
「ああ、そうだね。・・・それなら咲子、今日来るお客様は琴の演奏がとても上手な方なんだよ。勉強と一緒に習ったらどうかな?」
盈時の言葉に、咲子の表情が花が咲くような笑顔に変わる。
「すてきです!」
「もちろん、咲子がお客様と仲良くできればだよ。まずはこれから会ってみてからだね」
咲子の父・藤原盈時は、官位三位、宮中の内侍司で、監督官という役職についている事で、周りの貴族からも『目付殿』と呼ばれ一目置かれている。
後宮十二司のなかでも、内侍司は貴族の娘にとっては憧れの職業であり、良い家柄へと嫁ぐ為にも、内裏に勤める事を希望する女人も多い。
穏やかで公平、相談事には真摯に対応していく盈時は、内裏だけではなく大内裏も含め男女問わず、信頼も厚い。
その盈時が、正妻として咲子の母である紗子を娶ったのは十六の時。しかし、長く子ができなかった為、十八の時に側室である智子を迎えた。
正室よりも先に側室に嫡男ができてしまった事、咲子が二歳になるかという時に紗子が亡くなってしまった事で、現在藤原家は側室である智子の発言が強くなっている。
それでも正室であった紗子の家柄が、側室の智子の家よりも高い事に加え、紗子亡き後の咲子の養育を想い、盈時は引き続き、正室亡き後もこちらの屋敷で咲子と暮らす事を望んでいた。
だが、智子とその両親から『正室様がいない今、嫡男と過ごすべき』という強い言葉があり、せめて月の半分は正室の屋敷で咲子と過ごすという妥協案で落ち着いている。
もともと、盈時自身が正妻であった紗子を大事に思っていた事もあり、咲子が生まれる前から紗子に対して対抗心を出す智子だったが、その後、智子の元にも咲子より一つ下の娘ができて以降、紗子に向けられていた敵意が、咲子へ向けられている様子が見える事も、多々ある。
幸い屋敷には紗子の時から仕えていてくれる者が多く、補うように愛情を注ぎ愛しんでくれていた為、咲子は素直で賢い娘へと成長していた。
そんな事もあり、盈時は不憫に思う気持ちと共に、紗子の面影をよく写し愛らしく素直に育つ咲子を溺愛している。
「唐菓子は美味しいかい?」
北対と母屋の間にある坪庭を眺めながら、咲子を膝に乗せた盈時が、袋に包まれた唐菓子を一つ、また一つと手渡す。
「はい、とてもおいしいです」
膝に乗せられ、唐菓子を口にしながら、咲子は父盈時がいなかった間の事を話す。
内容は主に週に一、二度は誘いがある常寧殿での事で、梅見をした事や貝合わせでたくさん絵柄を取れた事、美味しいお菓子の事、着物を選んでもらった事等楽しそうに語る。それを頷きながら微笑む盈時の姿は微笑ましく、仲睦まじい親子を見て、傍仕えの侍女たちも自然と笑みが浮かぶ。
「旦那様、浮島様がお見えでございます」
几帳の影より侍女から伝えられると、盈時は傍にあった菓子袋を傍仕えに渡す。
代わりに渡された温くなった白湯を受け取ると、まだもぐもぐと咀嚼をしている咲子の口元に持っていく。
「ちちうえさま、ひとりでのめます」
こくんと口の中のものを飲み、そう言いながら咲子が口に持ってきた茶碗を小さな両手で受け取り口をつける。
「さあ、それを飲んだらお客様に会いに行こうか」
「はいっ」
愛しげに目を細め、咲子の頭を撫でながら言う盈時に、咲子が元気よく返事をした。
父、娘を甘やかすの回。
内侍司は後宮の役所であり、女性ばかりの100人程度の職場。躑躅パパはその監督官を担っています。
唐菓子は、唐朝から伝わったというお菓子で、米粉や小麦粉などの粉類に、当時はお砂糖がないので甘かずら(甘葛。蔓草の樹液を煮詰めて作った甘味料)や蜂蜜などの甘味料を加えてこね、果物の形を造り、最後に油で揚げたお菓子です。今でいう高級菓子。
当時は今ほど正確じゃないですが、時計もありました。





