part 2
それからしばらくの間、エリカ王女は落ち着かない日々を過ごした。先日の風変わりな出来事が尾を引いてよく眠れなかったこともあったが、頭を悩ませていたのはやはり、クリス・レイモンドのことである。ふとした折に城内ですれちがったり、公務の際に見かけることがあっても、クリスはいつも通りに礼儀正しく頭を下げるだけで、顔色一つ変えない。そのまったくの平常ぶりに、王女は不安になった。
カカはクリスにうまく渡せたのかしら。けれど私からのチョコレートだなんて、クリスにはご迷惑ではなかったのかしら。もしもクリスが断ったら……。
そんなことばかり考えて、気持ちがすっかり沈んでしまう。そうしてむかえた三日後の晩、西の塔で待っていた王女の前に、約束通りチョコレートの精があらわれた。
「お待たせして申し訳ありません、姫君」
「カカ、来て下さったのですね」
中庭に続く木戸からすべるように入ってきた男は、先日と同じ黒いマスクで顔を覆い、全身をマントで包んでいた。
「あの、それで、クリスには渡していただけたのでしょうか」
「もちろんですとも。王女殿下が心を込めてお作りになられたものだと伝えたところ、大変よろこんでいましたよ」
「まあ、本当に?」
「本当です」
頬をバラ色にそめてうれしそうに瞳を輝かせる王女に、チョコレートの精は、クリス・レイモンドが王女のチョコレートを食べ、たいそう美味だと感激していたこと、そしてお返しになにか差し上げたいが、どのようなものがお好きか教えてほしいと言っていたことを伝えた。
「受け取っていただけただけで幸せなのですから、どうかお返しなど気になさらないでと伝えてくださいますか」
けなげな王女は、重ねた手を胸にあてて喜びに身をふるわせる。
可憐で清らかな姫を、男は目を細めて見つめていたが、ふと思い出したように一言付け加えた。
「そういえば、レイモンド殿には恋人はいないそうですよ」
思いがけないカカの言葉に、王女の顔はぱっと輝いたが、すぐにまたしぼんだ花のようにうつむいてしまった。
「どうなさいました?」
「もうすぐ他国へ嫁ぐ身でありながら、クリスがお独りでいらっしゃることをよろこぶなど、なんて私は身勝手なのだろうと思ったのです。本当なら、あのかたがどなたか素敵な女性と幸せになるよう、願うのが当然なのに」
どこまでも生真面目で純粋な姫君は、そう言って瞳をうるませる。想い人の心を独占したいと思うのは、当たり前の願いであろうに。なのにこの姫君はそんな自分を責め、さらには想いを封じ込めて、別のだれかの妻になろうとしているのだ。
カカは黙ったまま、しばらくなにか考えていたが、ふいに王女の手を取って言った。
「姫、レイモンドどのもきっと、同じ想いでおられますよ。あなたの悲しみを知っていながらどうすることもできない自分を、不甲斐なく思っているに違いありません」
「まさか、そんなはずはありません。わかっていますの、あの方にとっては私など、ただの主君にすぎないと……」
「いいえ、チョコレートの精の言葉をお信じください。そしてどうか、悲しまないでください。笑っていてください。せめてあなたが嫁がれるまでは、この私が力になりますから」
「カカ……」
チョコレートの精のやさしい言葉が深く胸に響き、王女は涙をうかべて喜んだ。
それからというもの、チョコレートの精はときおり王女の前に現れるようになった。来るときには、王女のドレッサーの引き出しに小さなチョコレートが入れてある。それが合図だった。
カカはいつも聞き上手であり、また、たわいない話で姫を楽しませる。王女もその日の出来事だの、自分の想い出話だのを語るうち、いつのまにか彼にすっかり打ち解けていた。
「それで私が泣いていたのを、クリスが見かねて助けてくれたのです」
「ほう、レイモンドどのとはその時が初対面で?」
「はい。彼はまだ入隊したばかりでしたが、若くても腕が立つので、早くから護衛隊士の見習いとして宮殿への出入りを許されていたのです」
「なるほど。では姫君はその時からずっと彼を?」
「ま、まあ、どうしてわかるのですか?」
見る間に頬を赤くそめる王女に、男は笑いをこらえながら言うのだ。
「それはもう、チョコレートの精ですから」
ともにお茶を飲みながらひと時ほどすごしたあと、チョコレートの精は決まって中庭のドアからいずこかへ帰っていく。そんな不思議な男との時間を、いつしか姫は心待ちにするようになった。
何度目かのある晩、カカは、『クリス・レイモンドからいつかのチョコレートのお礼をあずかりました』と言って、小さな包みを持ってきた。
「まあ、お礼なんていらないと言いましたのに。気を遣わせてしまったかしら」
「そんなことはないでしょう。きっと彼もうれしかったのです。受け取ってさしあげてください」
とまどう王女をやさしく見つめるマスクの下の瞳。
友のように、兄のように、師のように、チョコレートの精はいつも変わらずおだやかに姫に語りかける。王女も不思議と彼の言葉には素直にうなずくことができるのだった。
いらないと言いながらも、やはり想い人からの贈り物はうれしい。王女は遠慮がちに、そっと可愛らしい赤い紙の包みを開けてみた。
「まあ、なんてきれい……」
そこにあったのは、小さな銀の装飾品だった。月をかたどった細工がみごとに施され、価値の高いものであることが一見してわかる。
「こんな高価そうなものを、いただいていいのでしょうか。私はチョコレートを差し上げただけなのに」
「いいのですよ。彼はあなたに持っていてほしいのですから」
「うれしい。大切にします。クリスに心からありがとうと伝えてくれますか?」
幸せそうに微笑む王女にうなずいて答える彼もまた、マスクの下で微笑んでいるように見えた。
「銀には月の加護があります。これを身に着けていれば、どんなときも月の女神があなたをお守りするでしょう」
「うふふ、でももう、あなたやクリスが守ってくださっているのに?」
笑いながら言う王女に、目を細めながら、ふとカカは黙り込む。
「……カカ?」
「いえ、なんでもありません。さて、今宵はそろそろお暇いたします。次はいつになるかわかりませんが、いすれまたご連絡いたします」
立ち上がると彼は王女の手を取り、しばらくじっと何事か考えていたようだが、やがて一礼すると、来た時と同じに中庭の木戸の向こうへと身を滑らせ、夜の中へ消えていった。