part 3
なぜだろう、なんだか変な感じがする。いつもと同じはず、けれど何かが違う気がして、王女の胸にはかすかな不安がのこる。
いいえ、きっと気のせいでしょう。カカはまた来ると言ったのだから。
そう自分に言い聞かせて、王女はまだほんのりとあたたかいティーカップに目を落とした。
それからしばらく、チョコレートの精は姿を見せなかった。
なぜカカは来ないのだろう、なにかあったのだろうか、そんなことばかりを考えて、つい不安になってしまう。そんなさびしさをまぎらわすために、王女はときおり宮殿のテラスから外を眺め、クリス・レイモンドの姿をさがした。
けれども、演習中の隊列のなかに彼を見つけることはできなかった。
そうして一月余りがすぎたころ、王女は、待ちに待ったカカからのチョコレートをドレッサーの引き出しに見つけた。再びあのやさしい友達に会えることがうれしくて、胸を弾ませながら夜を待ち、久しぶりに小さな厨房をおとずれた。
静まり返った暗い廊下から、手さぐりで重たいドアを押すと、錆びた蝶番がギイと軋んだ音を立てた。ろうそくの明かりを高くかざし、カカ、と小声で呼びかける。すると、背の高い見慣れたマントの男が姿を現した。
「ああ、カカ、来て下さったのね。一月もお逢いできなかったから、心配していました」
「ご連絡もせず、申し訳ありませんでした」
長い無沙汰をわびながらも、王女との再会を喜ぶ暇もなく、男は唐突に話し出した。
「姫、どうか、これから申し上げることをよくお聞きください。あまり時間がございませんので手短に申し上げます。……まもなく、この国はカンタリッジと戦になるでしょう」
てっきり楽しい話を聞けると期待していた王女は、あまりに思いがけない話に衝撃を受けた。
「……戦、ですって? まさか、だって来年には私、カンタリッジへ嫁ぐことになって……」
「先日、国境に隣接する町でちょっとしたもめ事がありました。原因はごくささいな喧嘩だったのですが、それが発端となって騒動になり、兵士たちが町を襲撃、大勢の民が犠牲になったのです。半数ほどはとらえられて、いまも拘束されているようです。そしてそのなかに、あなたの弟君が」
「アレンが!?」
半年ほど前から、海を隔てた友好国に遊学のために出向していた弟王子は、帰国途中に立ち寄ったその町で災難にあったのだった。むろん身分は明かしていないが、民の中には王子の顔を知っているものもいるだろう。いつまでも隠し通せるとは思えなかった。
王子であることが敵方に知れれば、状況はさらに悪くなる。なんとしてもその前に救出しなければならない、とカカは続けた。
「明日の夜明け、先鋒部隊が国境へむけて出発いたします。隊を率いるのは、クリス・レイモンド」
「!」
その名を耳にしたとたん、王女の膝から力がぬけて床にくずおれそうになる。とっさにのばされた力強い腕がそれを支えたが、小刻みに震える体を止めることはできなかった。
「なぜ、なぜこんなことに!? そうだわ、私、お父さまにお話しして、明日にでもカンタリッジとの縁組をまとめてもらいます。すぐに用意を!」
「姫、落ち着いてください」
「戦になる前に民を解放するよう、私がかならずカンタリッジ王を説得しますから、だからカカ、どうかクリスを止めて!」
駆け出そうとする王女の細い腕を、男が掴む。
「お待ちください」
「行かせて。お願いです、チョコレートの精、そしてどうか、クリスや皆を」
王女は必死に男の手をふりほどこうとしながら、お願い、お願いと何度もくりかえした。
「姫、レイモンドどのは優れた騎士です。必ずアレン王子を救いだし、あなたのもとへ帰るでしょう」
「いいえ、あまりに危険すぎます。二人の身に何かあったら……」
「彼を信じるのです。大丈夫、彼はきっとやりとげます」
「カカ……」
泣きじゃくる姫を男はそっと抱き寄せ、なだめるようにその背をなぜながら続けた。
「……ご安心ください。このチョコレートの精が、彼とともに参ります。そして彼と、幼い王子殿下をきっとお守りしましょう。ですからどうか、泣かないで。笑ってください」
男は幼子をなだめるように、その胸に王女の体をもたれさせて、しずかに言った。
「カカが? あの方たちを守って下さるの?」
「命にかえましても。そうしてクリス・レイモンドが王子を連れて無事にもどった暁には、姫よ、どうか彼に褒美をお授けになるよう、かならず王に言うのですよ。王は彼に言うでしょう、なんでも望みのものを言うが良い、と。するとレイモンドはこう言います、『どうかエリカ姫を我が妻に』と」
王女は顔を上げ、その濡れた眼でマスクの下の光る瞳をじっと見つめる。
「……私を?」
男はその長い指で王女の髪をやさしく撫でながら、力強くうなずいた。
「騎士の望みはかなえられるでしょう。そしてあなたは幸せになるのです」
「でも、でも、そのためにクリスやあなたが危険をおかすなんて」
「ご心配にはおよびません。……私は、チョコレートの精ですから」
何度となく耳にしてきたその言葉が、今日はあまりにせつなくて、王女は喉に込み上げてくるものをこらえきれなかった。
「さて、それでは私は参ります」
背を伸ばして立ち上がるカカに、王女の胸は張り裂けそうになる。
「かならず戻ってくると、約束してくれますか?」
青ざめた美しい頬にこぼれる涙を、男はそっと指でぬぐうと、
「ええ、きっと。どうかそれまでお元気で。どこにいてもあなたの幸せを祈っています」
そうささやいて、姫のなめらかな額に唇をおとし、さっと身をひるがえして闇へと消えて行った。
「カカ!」
最後に見た後姿に、姫の声はとどいたのだろうか。だがそれも一瞬で、木戸の向こうにはすでに、男の影すら見えなかった。
残された小さな厨房でひとり、涙を流す姫を、雲間からのぞく月が照らしていた。




